法然上人の弟子で耳四郎という人がいました

 

この人物は

かつての日本が舞台となっている

ある大ヒットアニメーション映画の

重要な登場人物の元になっているのではないか

ともいわれています

 

耳四郎は元は都で名の知れた盗賊でしたが

大変仏縁も深く

阿弥陀仏の救いを喜ぶ身になったのは極めて早かったそうです

 

耳四郎は大泥棒ですから

仏法を聞こうと思ってではなく

かつて法然上人の御法話会場で悪事をはたらこうとして潜り込んでいただけでした

 

法然上人は富楼那の弁舌といわれる大雄弁家で

御法話には多くの人が集まっていたのでした

 

その法然上人の教えの繁昌は

当時の仏教界が

日本中の仏教が念仏の教えに塗り潰される

との強い危機感から

後に上人を迫害し

親鸞法然両聖人は都から追放されてしまうのです

 

そんな法然上人の御法話ですから

人の多く集まるところには

金品も多く集まっているだろうとでも思ったのか

床下に潜り込んで上の様子をうかがっていたところ

法然上人が悪人を救ってくださる阿弥陀仏の大慈悲を説かれます

 

耳四郎はもしや自分が床下に隠れていることを

法然上人が気付いているのではと思うような悪人救済の御説法がきこえてくるので

それは集中して聞き耳を立てていたことでしょう

 

私達も仏法を聞く時は

自分の噂話をされているのを聞くように真剣に聞きなさいと言われます

 

他人事だと思っていては聞けないのです

 

耳四郎はその一座の聞法…とはいっても床下から聞いていたのですが

その一座で阿弥陀仏の絶対の救済にあずかったといわれます

 

歎異抄の言葉でいうならば

摂め取って捨てられることのない

「摂取不捨の利益」(せっしゅふしゃのりやく)に救われたということです

 

すべての人に必ずおとずれる死が来ても

絶対に崩れることのない不滅の幸福です

 

耳四郎のように阿弥陀仏に救われるのが非常に早い人を「頓機」といわれます

反対に阿弥陀仏に救われるのにひまのかかる人は「漸機」といいます

「機」とは仏教で人のことです

 

法然上人は

漸機の者は多く頓機の者は少ないと言われており

中でも耳四郎はわずか一座の御縁ですから

極めて珍しい人でしょう

 

耳四郎が自分のような悪人が救わたことを大変驚いたに違いありませんが

そんな耳四郎が驚いで床下から出て来たことを

知られた法然上人もまた大変驚かれたに違いありません

 

どちらの驚きが大きかったと思われるでしょうか?

 

その答えは後に譲るとして

歎異抄の真意を解明するには

耳四郎が法然上人のお弟子になってからも

盗みを辞められないでいたということを

よく知っていただきたいのです

 

法然上人のお弟子になっても

耳四郎はついつい人のものが欲しくなってしまい

盗んだ後で懺悔の涙に暮れるのです

 

法然上人のお弟子は400人余であったと言われますが

当然のごとく他のお弟子達からは

そんな耳四郎は破門にすべきだと声が上がります

 

しかし法然上人はそんな意見を聞き入れられず

上人の御前で懺悔に泣き崩れる耳四郎に

「そなたも業が深いのぉ」

とただ一言お声をかけられたのだそうです

 

阿弥陀如来は全ての人を悪人と見抜かれ

そんな悪人をそのままで救うと誓っておられます

 

これは歎異抄で最も有名な

「悪人正機」の教えです

 

「善人なをもて往生を遂ぐ

いはんや悪人をや」

 (歎異抄第三章)

 

これは日本の思想史上

最も有名な一文ともいわれます

 

この言葉は直接には

唯円という親鸞聖人の高弟が

親鸞聖人からお聞きしたと書き残していることですが

この言葉を先に言われたのは法然上人ではないかともいわれています

 

親鸞聖人のお言葉として有名になってはいますが

法然上人の教えを伝えることに生涯を捧げられたのが親鸞聖人です

 

先生の御心を正確に多くの人に伝える以外に

弟子の使命はありませんから

その意味でまさに親鸞聖人にとって弟子の本分でしょう

 

ただ「悪人こそが救われる」という“結論”は全く違いはありませんが

どうしてそういえるのか

という“理由”の説明は

法然上人の御言葉として残っている記録と

歎異抄とではお言葉が大きく違っていることに

注意が必要です

 

混同している人も少なくありませんし

どちらのお言葉の御心にも合わない解説ばかりが

横行しています

 

さて法然上人といえば

権力者の横暴により流刑にあわれた後も

多くの人から学も徳もある尊い僧侶と讃えられていますが

ご自身は

「愚痴の法然坊 十悪の法然」

と懺悔なされています

 

仏教で最も恐ろしいと説かれる

「阿弥陀仏の本願を疑う心」

は滅して摂取不捨の利益に与ったけれど

愚痴や十悪の煩悩は死ぬまで無くならない悪人だという告白です

 

その「愚痴」とは宇宙の真理である因果の道理がわからぬ愚かな心ですから

悪いことをすれば悪因悪果で必ず悪い報いが返ってくると

頭ではわかっていても

悪のやまない馬鹿な心です

 

また人間の造る様々な悪を十にまとめた「十悪」の中には

「偸盗」(ちゅうとう)があります

 

人のものを盗む罪です

 

偸盗はまた「不与取」(ふよしゅ)ともいい

与えずして取るということです

 

決して相手に誰も要らないものを与えるのではなく

相手に幸せを与え

代わりに自らの欲しいものを受け取る

 

世の商売はお金でこの取引を成立させていますから

万引きは偸盗であるというのは誰でもわかるはずです

 

しかし

相手の時間を奪うのも偸盗です

待つ身になっても待たせるな

といわれます

 

万引きはしたことがなくても

相手を待たせるという偸盗罪は

造ったことのない人は無いでしょう

 

有名な大泥棒

かの石川五右衛門の辞世には

 

「石川や

浜の真砂は尽きるとも

世に盗人(ぬすびと)の

種は尽きまじ」

 

と詠んでいます

 

この五右衛門の命が尽きても

第二第三の五右衛門が現れ

盗人は尽きないという確信は

これほど物質的に豊かになった現代でも

証明され続けています

 

ここで

「盗人」が尽きないのではなく

「盗人の種」が尽きないと言っていることは注目に値します

 

大晦日には108回の除夜の鐘が聞こえて来ますが

108の煩悩の数から来ています

 

ヘソの無い人があっても

この煩悩の無い人はありません

 

108の煩悩の中でも特に私達を煩わせ悩ませるのが

欲と怒りと愚痴の心の三つです


この欲と怒りと愚痴の心はまた

「十悪」のうち心で造る三つの罪でもあります

 

無ければ無い欲しい欲しい

あればあったでもっと欲しい

という際限なく求める欲の心が

盗人の種であると言うことができるでしょう

 

人のものでも欲しいという欲の心こそが

偸盗の最も大きな動機でしょう

腹が立つ相手を不幸にしてやりたいと思って

相手の大切なものを盗んでしまうこともあるかも知れません

 

また自分より幸せそうな人をみると

そこから引きずりおろしてやりたいという心から

そんな相手のお金や地位や名誉や恋人などを

盗んでしまおうということもあるでしょうが

こんな妬み嫉み憎しみの心も愚痴の煩悩です

 

これらの盗人の種は

泥棒養成所で泥棒修行をしているような人にだけあるのではなく

すべての人に尽きることがないのです

 

仏教では口や体の行いよりも

心を最も重く見るのは

盗人の種に限らず

あらゆる口と体の悪の種であるからです


これがわかれば

すべての人は「心の悪人」であると気が付きます

 

この欲と怒りと愚痴の

心の悪から

偸盗の罪を含め

口や体で造る様々な罪悪が出てきます


これら人間の様々な悪を十通りに教えられたのが

「十悪」です


また煩悩は先の三つの他にも105つあると教えられ

あらゆる人が108の煩悩の塊であり

これを仏教で悪人といわれます

 

仏教で「悪人」とは「人間」の代名詞であり

善人は一人もいないと教えられるのです

 

法然上人も例外ではないばかりか

上人ご自身がこの心の悪を阿弥陀如来の光明によって照らされ

深く懺悔なされていたからこそ

耳四郎にも同病相憐れむように親しい法の友よと親近され

「お前という奴はつくづく業が深いな」

ではなく

「そなた“も”業が深いなあ」

ただ一声かけられるばかりであったのです

 

この歎異抄を誤解し

阿弥陀さまは悪人大好き仏だから

悪をするほど助かるのだと好んで悪を行う「造悪無碍」とよばれる輩が現れ

「悪人製造の教え」などと

親鸞聖人の教えは特に非難されました

 

繰り事ですが

「悪人こそ救われる」という悪人とは

盗人の種でもある煩悩の塊である全人類の事です

 

心の悪を最も重く見るのが仏教ですが

心だけを問題にするというのもまた誤解です

 

心だけでなく

口や体で悪を造ればそれだけ鬼の所業を重ねることになります

この罪悪をよくよく見つめなさいという法然上人の教えを伝える立場でありながら

体で造る盗み癖の罪悪を隠すことができなかった耳四郎でした

 

しかし

それほど悪の染み付いた耳四郎のような者も救われ

また法然上人のお弟子として知られるということで

「私のような悪人など救われるものか」

と卑屈になっている人の

その疑いを晴らす縁にもなっていたに違いありません

 

かつて釈迦の時代にも

99人もの人の命を奪う無差別殺人鬼から

回心懺悔して仏弟子に生まれ変わった人があり

それをなぞるような師弟のやりとりが歎異抄にも記されています

 

悪人を救う阿弥陀仏の救済とは

人間を救うということなのです

 

どんな人も必ず救うということなのです

「弥陀の誓願不思議にたすけられ参らせて往生をば遂ぐるなり」と信じて
 「念仏申さん」と思いたつ心の発るとき
 すなわち摂取不捨の利益にあずけしめ給うなり

 (歎異抄第1章)

弥陀の誓願不思議を不思議と知らされたのが悟忍

往生をば遂ぐるなりと信じたのが信忍

「念仏申さん」と思いたつ心は

救われた喜びから仏恩報謝の他力の念仏称えようと思いたつ心であるから喜忍

 

 

阿弥陀仏の本願には「至心」「信楽」「欲生」の三つの心が誓われ

釈迦の観経には「至誠心」「深心」「回向発願心」の三心(さんじん)が説かれ

曇鸞大師の三不信に対して道綽禅師はより慇懃に「淳心」「一心」「相続心」の三信が教えられ

善導大師は「喜忍」「悟忍」「信忍」の三忍で明らかになされ

親鸞聖人のお言葉とされる歎異抄第一章では冒頭の流麗な御文によって

三つの心を教えられています

 

 

 

豊臣秀吉ほど日本において
この世の幸福のはかなさの知らされる人物はいない
といえるでしょう

天下を取り太閤と呼ばれ
大阪城や聚楽第を築き
また無類の女好きで寧々や茶々などをはべらせて
栄耀栄華を極めた人です

それとはまた対照的に
人生のむなしさを表す辞世の句もまた有名です

「露と落ち 露と消えにし 我が身かな
 なにわのことも 夢のまた夢」

生涯かけて築いた一切を
死ねば何一つ持っていくことはできない
という人生の悲劇さを知るのに
秀吉ただ一人の生涯を知るだけで
十分すぎるというほどです

彼の権勢を誇った大阪城は
かつて浄土真宗の中興といわれる
蓮如上人が建立された石山本願寺の地であり
まるで秀吉の人生を予見なされていたかのような
お言葉があります

夫れおもんみれば
 人間はただ電光・朝露の夢・幻の間の楽ぞかし

 たといまた栄華・栄耀に耽りて思うさまの事なりというとも
 其れはただ五十年乃至百年のうちの事なり

 もし只今も無常の風きたりて誘いなば
 いかなる病苦にあいてか空しくなりなんや

 まことに死せんときは
 予てたのみおきつる妻子も財宝も
 わが身には一つも相添うことあるべからず
 されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば
 唯一人こそ行きなんずれ


蓮如上人のお名前を知らなかったはずはない秀吉が
このお言葉を真実と聞いていたならば
彼の辞世は全く違っていたでしょう

日本の私達には
秀吉の生涯を通して親鸞聖人の教えを知るには
最高の反面教師となっていますが
そうではない場合はどうでしょう

海の内外のへだてなく
 みおやの徳のとうとさを
 わがはらからにつたえつつ
 みくにのたびをともにせん


真宗宗歌にもあるように
海外の人々に親鸞聖人の教えを伝えるには
秀吉を例示しても中々伝わらないでしょう

海外の方にも
そして日本の私達にとっても
この秀吉のような人生を望むことが
如何に愚かなことであるかが知らされる
『徒然草』に次のような因縁が記されています

大和国に久米寺という古い寺があります

昔、久米という仙人が雲に乗って
大空を自在に飛び回っていました

ある昼さがりのこと
得意満面の彼は
雲間から下界を見おろします

広い大和平野に一条の川が静かに流れています

その川に天女を思わせるきれいな娘が
だれに見られる心配もない気楽さから
おもいきり腰巻をまくりあげ
内股広げて鼻唄まじりで陽気に洗濯しているのを見てしまったので

相当の修行を積んでいた仙人ではありましたが
なまめかしい姿態をみてはたまらない

つい出してはならぬ妄念がわきあがったのです

と同時にたちまち神通力を失って
雲間から転落して二度と空を飛ぶことができなくなりました

仙人はそこに寺を造り
仏道修行に打ちこんだといいます

これが久米寺の伝説です

いくら仙人といっても
人間が雲に乗って自在に空が飛べるはずがありません

これは慢心をあらわしたものでありましょう

人は山のてっぺんに登ることはできても
そこに永く住むことはできません

地獄は有頂天から始まることを
決して忘れてはなりません

有頂天という言葉は
元来は仏教から出た言葉です

苦しみ迷いの六道輪廻の世界で
最も楽しみの多い世界が天上界ですが
その天上界の中でも最高の世界を
「有頂天」といわれるのです

迷いの世界の中でこれ以上は無いのですから
後は転落するだけです

有頂天という迷界では最高の境地から
最も苦しみの激しい無間地獄に堕ちることがあるのです

秀吉の臨終が「夢のまた夢」と悲劇的であったことも
蓮如上人が「三塗の大河をば唯一人こそ行きなんずれ」
と仰せになっているのも
すべての人に後生の一大事のあることを知らせるためであり
この一大事を助かるには阿弥陀仏の本願の他には無いと
明らかにする

このこと以外に
我々真宗人の為すべきことは他にありません

蛇足になるかもしれませんが
天上界に存在する有頂天と聞けば
何か我々には無縁のことのように思われますが
蓮如上人が「三途」と仰る三悪道
すなわち地獄界・餓鬼界・畜生界の衆生ばかりが
比較にならないほど多いこの迷いの世界で
人間界に生まれ一時の幸福を感じているのも
悪道の彼らから見れば有頂天のようなものです


人趣(人間)に生まるるものは
 爪の上の土のごとし
 三途に堕つるものは
 十方
(大宇宙)の土のごとし
  (涅槃経)

八大地獄で比較しても
一つ上の地獄は天上界のように楽しい世界に見えてしまう
といわれます

この世の一切は相対的であり
何かと比べて喜ぶ幸せしか我々は知りませんから
「有頂天からはじまる地獄」というのも
何も別世界のことでは断じて無いのです

「あなたの人生のピークはいつでしたか?」
などと尋ねられて
安易にいつどんな時であったと
すぐに答えることができてしまう人もあるでしょう

人生全体を通しての話ではなくとも
調子の良い時ほど注意しなければなりません

大型連休の旅行先で死んでしまうようなトラブルに遭った人がある
「わざわざ死ににいったようなものだ」
と嘆かずにはいられない

そんなことが毎年のように起きています

ものごとが割合順調にいっている時ほど
事故や事件に巻き込まれたりするものですが
いつ何が起きるかわからない
「火宅無常の世界」に生きている私達なのですから
次の瞬間には地獄という不安は絶えることがありません

がめつく生きても
無欲な生き方をしてみても
調子の良い時ほど気を付けようと
気を引き締めてみても
いずれもいずれも後生に一大事を抱えているのは同じであり
「生死の苦海ほとりなし」
と親鸞聖人が仰せになっている通りです

あまり理解できる人が多くはないでしょうが
結論だけでもわかってもらえばと思い記しておきます

人間の心を浅深で大別すると8つになり

これを「八識」と教えられ
それらの中で最も深い本心といわれるのは「阿頼耶識」です

一方で私達の苦悩の根元
大経には「生死勤苦之本」とあり
覚如上人の改邪鈔には「生死流転の本源」と説かれ
心の底の底の底にある心である疑情・自力の心は
阿頼耶識とはどのような関係なのか
と疑問に思う人があって当然です

我々の苦悩の真因である迷いの「心」が
八識に説かれているのでしょうか

親鸞聖人は阿頼耶識という言葉を使ってはおられません

仏教の心理学といわれる唯識学を大成されたのは天親菩薩であり
親鸞聖人は七高僧の第二祖と仰ぎ
天親菩薩の「親」の字を親鸞聖人のお名前にいただいておられます

しかし「阿頼耶識」という概念は
阿弥陀仏の救いを説くには合わないところがあり
聖人は「信具足」「信不具足」という言葉を使っておられます

「阿頼耶識」という仏語は

因果の道理や三世など
仏教の基本を理解するのに良いので
浄土真宗の教えでも教えられることがあるのです

もう少し詳しくいえば
苦悩の元凶である本願疑惑心は
本名を第八阿頼耶識といわれます

浄土真宗ではこの根本無明は
「消滅する」「破れる」
「なげ捨てよ」「ふり捨てよ」などと説かれ
この心が完全に無くなるまで仏法を聞け

と徹底して教えられています

そのまま単純に理解しようとすれば
私達の魂が無くなってしまうということなのか
などと思うでしょう

親鸞聖人は「命終」とも仰せになっています
同時に歓喜無量のいのちに生まれるのです


信受本願 前念命終
 即得往生 後念即生

  (愚禿鈔)

真宗では欲や怒りの煩悩を
「衆生性得の機」と教えられ
「黒い心」ともいわれ
疑情のことを
「自力計度の機」と教えられ
「暗い心」ともいわれます

弥陀に救われた一念で自力計度の機が廃っても
「衆生性得の機」は減りも無くなりもせず
「南無回向の機」と一体になります
この心を「白い心」ともいわれます

これは浄土真宗の教えの特徴です
「黒い心」「暗い心」「白い心」と三つあります

信前は「衆生性得の機」と「自力計度の機」の二つ
信後は「衆生性得の機」と「南無廻向の機」の二つになるのです

「衆生性得の機」は死ぬまで変わらぬままであり
「自力計度の機」が「南無廻向の機」に変わることが肝要なのです

それでは「阿頼耶識」という言葉を使って
弥陀の本願を表すことはできないのでしょうか

わが弥陀は名をもって物を接したまう
 ここをもって耳に聞き口に誦するに
 無辺の聖徳、識心に攬入
(らんにゅう)
(教行信証 行巻)

「阿頼耶識が名号と一体になるから
未来永遠の幸福に救われるのだ」
と説くことができるのです

三世を貫く不滅の生命である阿頼耶識が
「無始よりこのかたの無明業障の恐しき病」に罹っているから
苦悩絶えず悪道止まぬのだと言うことができるのです


この病を蓮如上人はまた
「過去・未来・現在の三世の業障」とも説かれています

機の真実からいえば
未来永遠に救われない迷いの衆生ですから
過去・現在・未来の三世を永久に流転する者ですが
法の真実からいえば
必ず無明業障の病を治すことのできる阿弥陀仏の本願力ですから
無始より苦しめ続けたこの病には寿命の尽きる時が必ずあります

しかし無明業障の病の寿命が尽きるといっても
人間などの肉体の寿命のように
放っておけばいつかは死ぬという意味ではなく
阿弥陀仏の名号によって斬り殺されねば
命終ということはありませんから
決定的な違いです

この言葉の限界に挑む表現がわからなければ
真宗の道俗からの疑謗破滅はどれほどになるかわかりません
 

我々の心を八つに分けて教えたものを
仏教で「八識」(はっしき)と言われます

⑴ 眼識 (げんしき)
⑵ 耳識 (にしき)
⑶ 鼻識 (びしき)
⑷ 舌識 (ぜっしき)
⑸ 身識 (しんしき)
⑹ 意識 (いしき)
⑺ 末那識 (まなしき)
⑻ 阿頼耶識 (あらやしき)

これらの解説については次のページでご確認ください
https://ameblo.jp/voyage18/entry-12936870426.html



主人公である竈門炭治郎が
人を喰う鬼を討伐する鬼殺隊に志願し
隊士になるための最終選別で生き残った5人は
世間ではよく「五感組」といわれていますが
この「五感」を仏教では
「前五識」といわれます

竈門炭治郎………嗅覚 ⇒鼻識
我妻善逸…………聴覚 ⇒耳識
嘴平伊之助………触覚 ⇒身識
栗花落カナヲ……視覚 ⇒眼識
不死川玄弥………味覚 ⇒舌識

ここまでは一般の考察でも有名ですが
これ以外も含む「八識」によって
鬼殺隊の組織全体が組成されていると見ることができます

産屋敷耀哉……世間一般で言うところの意識・無意識・潜在意識
       ⇒意識(仏教の八識の第六識)

「意識」の「識」と「産屋敷」の「敷」は
文字は違いますが読み方は同じです

「屋敷」「柱」「鎹」などの建築用語で構成されている
鬼殺隊の役割の意味と仏教の八識とが重複しているのでしょう

先見の明があり隊士たちに慕われるというのは
まさに前五識などの心や身体を統率し
指令を出している人体の「頭脳」そのものだからです

そして産屋敷家の当主が自ら刀を振るって鬼を切る
ということができないのも五感や身体ではなく
「頭脳」そのものであるからです

厳密には産屋敷家・当主のことであり
産屋敷耀哉の一人単独の人物だけのことではありません
自らのことを「それほど重要ではない」と言っているのも
人間の意識を司っている脳神経細胞は絶えず代謝を繰り返して
生滅を繰り返して続いていくことを表しているのです


そして最も重要なのは
産屋敷家と鬼舞辻無惨は元々は同じ血筋であった
と言われていることです

鬼舞辻無惨とは「第八阿頼耶識」のことであり
つまり鬼滅の刃という物語は
それ全体が「八識」の関係のことであり
一人の人間の中にある苦悩の元凶が
截ち切られるまでの物語であるということです

またその鬼舞辻無惨が生み出した鬼達は
欲や怒りの108の煩悩ですが
これらの鬼達の視覚を共有したり
思考を読むことができたりするのも
それらの鬼達の本心であるのだから
当然だということもできるでしょう

迷いの世界の中で
苦悩の根元である「第八阿頼耶識」を滅する
阿弥陀仏の光明に救われる真実の教えを
聞かせていただこうとすることができるのは
人間に生まれ人間の意識をもっている時だけです

人身受け難し
 今已に受く
 仏法聞き難し
 今已に聞く
 この身今生に向って度せずんば
 さらにいずれの生に向ってかこの身を度せん

 (釈迦)


まだまだ説明できることがあり
第八阿頼耶識を滅するとはどういうことか
滅せられた後はどうなるのか
などについても仏教の教えから説明できますが
大変深い教えであり詳しく解説しなければなりません

今回はできるだけ八識との関係に絞って
簡略に解説するよう努めたつもりです

鬼滅の刃を仏教から解説することで
親鸞聖人の教えを多いに弘めることに直結するのではないか
とも思われ今回はこのような内容で解説しました

この先の解説もご要望など多くありましたら
それだけお応えてきるよう努めるつもりではあります

我々の心を八つに分けて教えたものを
仏教で「八識」(はっしき)と言われます

⑴ 眼識 (げんしき)
⑵ 耳識 (にしき)
⑶ 鼻識 (びしき)
⑷ 舌識 (ぜっしき)
⑸ 身識 (しんしき)
⑹ 意識 (いしき)
⑺ 末那識 (まなしき)
⑻ 阿頼耶識 (あらやしき)


普通私たちは心は1つだと思っています

仏教では、私たちの心は8つあると教えられています
それが「八識」です

「識」は心ということで
八識は8つの心ということです。


1.眼識

「眼識」とは、色や形を見分ける心

2.耳識

「耳識」とは、音を聞き分ける心

3.鼻識

匂いをかぎ分ける心

4.舌識

甘いとか、辛いとか、酸っぱいとか、味を見分ける心

5.身識

寒いとか暖かい
痛いとか快いなどを感ずる心


これら5つの心を「前五識」(ぜんごしき)といわれます

6.意識

前五識を統制して、記憶したり、判断したり
考えたり、命令したりする心

ところが私たちは頭で分かっていても
「分かっちゃいるけどやめられない」
ということがあります

何かより強い力で動かされているのです

心理学では無意識とか深層心理と言われたりしますが
仏教では「意識」に含まれる心です

それより深いところに
末那識と阿頼耶識があります

7.末那識

執着する心

8.阿頼耶識

「阿頼耶」とは蔵のことです

「ヒマラヤ」はサンスクリット語で「ヒマ(hima)」+「アーラヤ(ālaya)」ですが
「ヒマ」は雪のことなのでヒマラヤは雪の蔵ということです

ですから「阿頼耶識」とは
「阿頼耶」+「識」で「蔵の心」ということです

「蔵識(くらしき)」ともいわれます

蔵というのは普段はとても静かです
母屋には家族が集まって一家団らん
楽しく過ごしているのですが
普段から蔵に集まって活き活きと生活している家族はありません

ところが蔵には、お米や財産など
大事なものを保存しておきます
そして火事が起きたときでも
蔵は土でできていますので燃えずに残ります

火事がおさまった後に
蔵からお金を出してきて
再び母屋を建てることができるのです

それと同じように私たちの肉体は
生まれたときにできて死ねば滅びます

ところが、阿頼耶識は、肉体が生まれるずっと前から
肉体が滅びても滅びることなく続いていきます

果てしない遠い過去から、永遠の未来に向かって流れて行く
私たちの永遠の生命を阿頼耶識というのです

とうとうと流れる大河のようなもので
肉体は川面にできたあぶくのようなものです

あぶくができようが消えようが
河の水は増えもしなければ減りもしません

私たちの本心は阿頼耶識なのです

このような仏教の心理学を「唯識学」といい

今から約1700年前のインドに現れられた

天親菩薩という方が大成されました

 

親鸞聖人のお名前の「親」の一字は

この天親菩薩からいただいて

名乗られたのであるといわれています

 

「無常を観ずるは菩提心の一(はじめ)なり」

「無常を観ずるは仏道の一なり」

仏道において無常観と罪悪観が共に大切であるといわれる一方で
二つも三つもない出発点は無常観であるといわれます

聞法・求道のきっかけは
無常観である人が多くあり
お釈迦様はじめ善知識方もそのような方が多いのです

伝える立場で言っても
人は苦しくともなぜ生きるのか
この答えを明らかにしようとして
どうして人は苦しむのかということから話をしようとすると
端的にいえば煩悩の罪が原因なのですが
自惚れ強い人間が素直に
今の私の苦しみはすべて貴方の罪悪による自業自得なのですよ
といわれて深く頷く人は極めて少ないのです

「あなたが苦しみに沈むのは
それだけ深く信じていたものに裏切られたからでしょう
どうして幸せに裏切られるのか
それは諸行無常だからです」

無常から話をした方が
心の抵抗は少なく法水は染み渡るものです

どうして諸行は無常なのか
それは

一切法(万物)は因縁生なり(大乗入楞伽経)

と説かれる如く
一切は因縁和合してしばらくの間だけ続くものであり
因縁が離れれば壊れ崩れ滅ぶ時節到来が来るのですよ
と因果の道理を説き
ようやく自己の運命は己の業によって生み出されるものだ
と知らしめることができます

それにより
ようやく仏の眼からご覧になった本当の私のすがたを
説き明かすことができるのです

無常なるがゆえに後生あり
罪悪のゆえに一大事あり

無常と罪悪を見つめることが大切であるから
蓮如上人は繰り返し
「後生の一大事」
という言葉を使われて
仏法を聞く目的を明らかにしておられます

後生の一大事は
無常と罪悪がわからねば
もうわかりません


私達の本当のすがた(機の真実)を

無常迅速の機
罪悪深重の機
などと言われることもあり

無常からも罪悪からも繰り返し説かれていますが

最も遡るならば

後生の一大事を救ってくださる
唯一の仏である阿弥陀仏が
私達の本当のすがたを
どう見ておられるかと言えば
「唯除五逆誹謗正法」
とのお言葉であり
「罪悪」で仰っておられるのです


「誠なるかなや摂取不捨の真言」
と阿弥陀仏の本願の通りに救われるのですから
救われた一念に知らされるすがたはまさに
五逆謗法の金輪際助からないものであった
という「罪悪」こそまず徹見しなければならないのです


善導大師の機の深信のお言葉も
まさに罪悪の告白です


後生の一大事という言葉から言っても
無常・後生ということが無くなるということは絶対にありません
 

では一大事はどうかといえば
後生の一大事には
「応堕地獄の一大事」と
「往生極楽の一大事」との
二つがありますが
応堕地獄の一大事が解決されて
往生極楽の一大事と転じ変わるのです

 

「後生の一大事」の「後生」が無くなるということはありません

 

死ななくなるということは

あり得ないからです

 

しかし「後生の一大事」の「一大事」が

解決されるのです


欲や怒りの煩悩の罪悪は死ぬまで無くなりませんが
仏智うたがう罪が平生の一念に消えて
欲や怒りの煩悩の罪がさわりのままで

一切さわりにならない

「無碍の一道」に生かされるのです

 

諸行無常は大宇宙の真理であり

「後生」が滅するということはありませんが

「一大事」の原因である罪悪(疑情)が滅せられるのです
 

この無碍の一道の人だけに

死んで往生極楽の一大事があり

その臨終一念で無量寿・無量光の弥陀同体の仏の覚りを開いて

寿命無量なるがゆえに無常の境涯ではなく常住の国に在り

光明無量なるがゆえに無明煩悩を滅し安楽に在る

 

罪悪生死を離れ「後生」も「一大事」も無き真実の仏身となるのです

 

罪悪は
まず十悪が知らされ
五逆が知らされ
謗法が知らされ
闡提の機が知らされ
助かる縁手掛かりが切れた時に
仏智疑う罪深きことに懺悔させられ
この疑情一つが一念で永久に絶ち切られるのです

 

無常と罪悪を見つめ

弥陀の誓願不思議を聞き開かなければなりません

 

 


光明といいますと
太陽か電灯の光のように思う人があるかもしれませんが
仏教では仏の念力
仏力を光明(智慧)といいます

私たちの目に見えない仏の大願業力
大念力をいうのです

仏は光明と寿命、智慧と慈悲の覚体だといわれますのは
私たちを救わんとするお力を持っていられることをいうのですが
阿弥陀仏が本師本仏と崇められ
諸仏の王といわれますのは
弥陀の光明・智慧が
諸仏にズバ抜けているからです

 それは極悪の私たちを救済することのできる仏は
阿弥陀仏以外にはないことを暗示なされた
釈尊のご金言でもありましょう


●二通りの阿弥陀仏の仏身

親鸞聖人は阿弥陀仏に二通の仏身があると説かれています


仏について二種の法身まします
 一には法性法身と申す
 二には方便法身と申す

 『法性法身』と申すは
 色もなし形もましまさず
 然れば心もおよばず語もたえたり
 この一如より形をあらわして『方便法身』と申す
 その御相に法蔵比丘となのりたまいて
 不可思議の四十八願を発しあらわし給うなり


 (唯信鈔文意)

法性法身とは人智では認識できない
色も形も臭いもない仏のこと

「法身」とか「真如法性の身」ともいわれる

法性法身は人智では認識できない
色も形もない仏様なのですから
法性法身は太陽や電灯の光
のような存在でもなければ
当然にように闇でもなく
青でも赤でも黄色でも白でもありません

無量寿の本当の仏のおすがたなのですから
諸行無常のこの世界の色も光も
無常の肉体を持っておられるのでもないのです

もし色や形や光を持っているならば
それは無量寿ではなく
いつか必ず滅びる
生死の迷いの世界のものです

御仏がそんなおすがたであるならば
それは無量寿の仏そのものではなく
仮のお姿である「方便法身」です

「方便法身」とは
我々の認識にのる姿形の仏
我々に分からねば一切
縁を結ぶことも救うこともできないので
我々に分かる姿を示された仏身だから
「方便法身」とも言われる

また「報身」ともいわれます

このようなお姿の仏様に対して
「常に後光が射しておられるのでしょう」
と尋ねる人もあるかもしれませんが
電灯の光のような後光をまとった人が本当に実在したら
私達は却って不審に思い
近づきにくくなってしまうのではないでしょうか

仏徳をそなえられた仏様が
いわゆるオーラを纏っておられるように
人々が光明のごとくに感じられることはあっても
それで暗がりの中で字が読めるようになったり
夜道を歩くのに足元を照らしてくれたりするものではないでしょう

もし仏様が我々の肉眼で見える光を
放たれるようなことがあるとしたら
それはどうしても阿弥陀仏の本願に導かねばならぬ手段として
ホタルやクラゲのようなすがたになってでも
人を導かねばならない必要性がある場合くらいでしょう

 

お釈迦様の時代
仏教史上最大の悲劇として有名な「王舎城の悲劇」が惹き起こりました

このヒロインである韋提希夫人は
当時のインドで最強を誇っていた
摩訶陀国の頻婆娑羅王の妻でしたが
高齢出産で苦労して産み育てた我が子・阿闍世によって
七重の牢に幽閉されてしまったのでした

韋提希夫人が救いを求める心の叫びがお釈迦様に届いた時
大事な法華経の御説法を中断なされて
韋提希の元へ向かわれたことがありました

韋提希夫人の救済に向かわれた釈尊の御心を
親鸞聖人は次のように御解説なさっておられます


然ればすなわち、浄邦縁熟して、調達闍世をして逆害を興ぜしめ、
 浄業機彰れて、釈迦韋提をして安養を選ばしめたまえり
 これすなわち、権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、
 世雄の悲、正しく逆・謗・闡提を恵まんと欲してなり
 (教行信証総序


「釈尊在世中、王舎城の悲劇を通して
提婆が阿闍世に親殺しの大罪を犯させ
弥陀の本願を説く機縁が熟して
釈迦は牢の中で苦悶する韋提希夫人に弥陀の本願を説かれ
絶対の幸福に導かれたのである

これら王舎城の悲劇に登場する人のすべては
苦悩の全人類を救わんが為に諸仏方が
韋提希夫人らと姿を変えて演じられたドラマであり
助かる縁なき極悪人こそ弥陀の正客であることを示さんが為の
ご方便であったのだ


韋提希は飲食を絶たれた我が身に
死が差し迫っていることを感じて
自身の無常(死)に恐れていたに違いありません

阿弥陀仏に早く救われるに大切なことの一つは
「無常観」です

それはなぜか
覚如上人が
「阿弥陀仏の救いで最も大切な御心」
を知ることになるからであると教えておられます

如来の大悲、短命の根機を本としたまえり
 もし多念をもって本願とせば
 いのち一刹那につづまる無常迅速の機、
 いかでか本願に乗ずべきや
 されば真宗の肝要
 一念往生をもって淵源とす

 (口伝鈔)

弥陀の慈悲は徹底しているから
臨終が一刹那に迫っている
最悪の状態の人を想定されている
あと一秒しか命のない人に
三秒かかるような救いでは間に合わない
一念の救いこそが
弥陀の本願の主眼であり本領なのだ


親鸞聖人が一念を「時剋の極促」と仰せになっているように
「一念」とは阿弥陀仏に救われる極めて短い一瞬のことです

阿弥陀仏に救われるとは
「往生一定」になることです

「死ねばどうなるかわからぬ心」が晴れて
死ねば極楽に往って
仏に生まれることが明らかに知らされます

一念で往生が定まりますから「一念往生」ともいわれます

死んでからではない
生きている現在のことですから
親鸞聖人の教えを「平生業成」ともいわれます

やがて釈尊の観無量寿経の御説法によって
阿弥陀仏の絶対の救済に与る韋提希に対し
釈迦の一対一の対機説法でした

歎異抄には
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば
 ひとえに親鸞一人が為なりけり」
とあります

この時まさに釈尊の御説法は韋提希一人がためですが
これらすべてをまた祖師聖人は
親鸞一人がための諸仏方のドラマであったと受け止められています

明日ありと思う心のあだ桜
 夜半に嵐の吹かぬものかは


4歳でお父様
8歳でお母様を亡くされ
次に死ぬのは自分の番だと
わずか9歳で仏門に入られた時に
詠まれた歌ですが
さらに聖人19歳の御時に
聖徳太子の夢告を授かり
「そなたの命はあと10年」
と予告され
激しい無常にせめたてられていた聖人が
「親鸞一人がための本願だった」と
阿弥陀仏の救いに遇われたのは
それからちょうと10年後のことでした

阿弥陀仏の絶対の救済にあえた人は
誰もがこのように喜び感泣せずにはいられないのです



そして阿弥陀仏に早く救われるに大切なことのもう一つは
「罪悪観」です

弥陀に救われる直前の韋提希にとって
求道の大きな問題は
心を静めて阿弥陀仏とその浄土を念ずることができるかどうか
ということでした

釈迦のお勧めの通りに定善十三観の実践ができるかどうか
心を静めようとすればするほど
浮かび上がってくるのは
提婆の畜生
阿闍世の餓鬼め
という
阿闍世と提婆への瞋りと憎しみばかり

釈迦の繁栄を妬んだ提婆という者が
韋提希の息子である阿闍世をそそのかし
乱暴者であった阿闍世が遂に
母である韋提希を投獄させるというところまで
暴走させてしまったのでした


瞋りや憎しみは
欲が妨げられた時に出てくる心です

欲や怒りや憎しみの心を仏教で「煩悩」といい
この煩悩が盛んに燃えさかっているために心が静まらないのです

親鸞聖人も同じ心の道程を通られ
弥陀に救われて次のように仰せになっています


願力無窮にましませば
 罪業深重もおもからず
 仏智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず

 (正像末和讃)

韋提希が心を静めようとしても
止まない阿闍世と提婆への瞋りと憎しみが
罪業深重のすがたであり
そのまま散乱放逸のすがたです

心が静まっているかどうかが問題になるのは
一つにはお勤めをしている時です

今日は娘の命日だ
娘のことだけを念じて親鸞聖人の正信偈を拝読しようと
「帰命無量寿如来」
と読み始めたところまでは良いのですが
「台所の方が焦げ臭いぞ、火を消し忘れているのでは」
と心のさざなみが立ち始めます

「南無不可思議光」と次を拝読していると
宅配の荷物が届いて家の呼び鈴が鳴る
「誰か早く受け取りにいってくれ」
などと心が乱れます

そしてなにより
聞法の場で誰もが真剣に聞いているような顔をしていても


御法話の最中に
心は既に帰り支度をしていたり
夕飯は何にしようかなと
とっくに家に帰っている

来週は初めての海外旅行だな
などと思って
心が外国にまで飛んでいく

浅ましい私たちの心は
大宇宙を一周するのに1秒もかからないのです


阿弥陀仏の救いに導くために
お釈迦様は観無量寿経で韋提希に対して
心を静めて弥陀とその浄土を念ずる定善を勧められていますが
私たちも韋提希のように定善の行を実践しなくても良いのだろうか
と疑問に思う人がありますが
聞法やお勤めの時に
同じ心の道を通るのです

罪業深重・散乱放逸の私たちが
心を静めて善が出来たら
助けることができる
というなら
願力無窮でもありませんし
仏智無辺ともいわれません

歎異抄には平生の一念に救われた世界を
「無碍の一道」と説かれています

欲や怒りやねたみそねみの煩悩が無くなるということではなく
煩悩あるがままで碍りが碍りにならなくなった世界です

無常と罪悪を見つめ
韋提希は釈迦のお導きによって
この地球上で初めて阿弥陀仏に救われたのでした

韋提希の救済が記されている「観無量寿経」というお経は
「無量寿を観ずる経」ということで
阿弥陀仏とその浄土を思い浮かべなさいと説示されています

このお経で韋提希が阿弥陀仏に救われたことが
見仏得忍」(けんぶつとくにん)と示され
阿弥陀仏のお姿を拝見した時に
救われたのだということです

また阿弥陀仏に早く救われるには
「無常観」
「罪悪観」
が大切だといわれ
ここでも無常と罪悪を「見つめなさい」
と教えられています


親鸞聖人の教えでは
見聞一致」(けんもんいっち)
といわれ
末代の私たちは阿弥陀仏の救いを
「聞く」一つで救われると
教えられています

どうしたら無常と罪悪を見つめることができるのか

蓮如上人は
仏法は聴聞に極まる
と断言されていますが
これはお釈迦様も親鸞聖人も教えられていることに他なりません

ですから
正しく仏教を説かれる先生から
阿弥陀仏の救いをよくよく聞かせていただくことが大切です

数ある仏教書の中でも
正しい仏教を記されている書物は極めて少ないですが
それらの書物を読ませていただくことも大切なご縁です

無常迅速の人を一念で救う
罪悪深重の人を不可思議の願力で救う
この阿弥陀仏の御心を聞かせていただくことが
無常と罪悪を見つめることに他ならないのです

◆十方恒沙の諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讚歎したまう

 (大無量寿経下巻・十七願成就文)

 

阿弥陀仏の創造なされた南無阿弥陀仏を讃嘆なされたのが釈迦四十五年間の御教えであり

七千余巻の一切経となって今日書き遺されています

 

それでも説き尽くせなかったと釈迦は言われてお亡くなりになっているのです

 

この弥陀の威神功徳を

釈迦のみならず大宇宙の諸仏方が讃嘆なされていることを

一言で表されているお言葉が

先に挙げた十七願成就文です

 

最高無上

広大無辺

甚深にして底無しの功徳

 

様々な表現で言葉を尽くして説かれていますが

十方諸仏が異口同音に讃嘆されているそのことを

一言で表されているお言葉は

「不可思議」の一言です

 

これは決して我々人間の凡夫の浅智慧では不可思議だということではありません

 

大宇宙の真理の一切を覚られた諸仏方にとって

一仏も残らず「不可思議」の功徳であることを

言われているのです

 

だから親鸞聖人またこの阿弥陀仏の創造なされた

「難度の海を度する大船」を

「難思の弘誓」と仰っています

 

難思の弘誓は難度の海を度する大船(教行信証総序)

 

これは親鸞聖人の主著「教行信証」の冒頭であり

これより前の言葉は一つもありません

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」

「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり」

など

冒頭の言葉が極めて多くの人に知られる有名な文学作品もあるように

著作の冒頭というのは極めて重要です

 

聖人の教行信証の冒頭の

またそれが阿弥陀仏を讃嘆なされる最初のお言葉が

「難思」

という

すなわち「不可思議」と同じ意味のお言葉なのです

 

これは同じく親鸞聖人が教行信証のエキスを結晶された

「正信偈」でも同様といえるでしょう

 

帰命無量寿如来 南無不可思議光(正信偈)

 

釈迦のお言葉と全く同じく「不可思議」と仰せになっています

 

歎異抄第1章の冒頭も同様です

 

◆「弥陀の誓願不思議に助けられまいらせて往生をば遂ぐるなりと信じて・・・」(歎異抄)

親鸞聖人は常に弥陀の讃嘆を

「難思」

「不可思議光」

「弥陀の誓願不思議」

十方諸仏に等しく「不可思議」の威神功徳であることを讃嘆なされているのです

 

蓮如上人また親鸞聖人の教行信証を短いお手紙に表された中でも

365日のうち360日までは

朝晩のお勤めの際にはこの御文章を拝読したらよいといわれる

「聖人一流の章」にも

不可思議の願力として仏のかたより往生は治定せしめたまう(御文章)

と仰せになっています

 

真実の仏法が説き切られているのを

せっかく聞かせていただいても

「大体わかったのでもう聞かなくていいです」

などと言って仏縁から遠ざかってしまう人があります

 

 

 

補処の弥勒菩薩を初めとして、仏智の不思議を計うべき人は候わず (末灯鈔)

 

最も仏に近いあの弥勒でさえも知ることのできない仏智の不思議を

少し聞いただけでどうしてもうわかったなどと言えるでしょう

 

不可思議だからこそ生じる誤解も

この世のどんなことよりも多くなる

 

不可思議の世界を伝えようとしたことなど

生涯に一度も無い人達ばかりなのだから

そんな大功徳を伝えようとする苦労を

察してくれる人さえある筈がない

 

それら一切も覚悟の上で

弥陀の誓願不思議を不思議と知らされるまで聞き抜き

言葉にならぬ不可説・不可称・不可思議の真実を

何とか言葉で伝え抜かなければなりません