法然上人の弟子で耳四郎という人がいました
この人物は
かつての日本が舞台となっている
ある大ヒットアニメーション映画の
重要な登場人物の元になっているのではないか
ともいわれています
耳四郎は元は都で名の知れた盗賊でしたが
大変仏縁も深く
阿弥陀仏の救いを喜ぶ身になったのは極めて早かったそうです
耳四郎は大泥棒ですから
仏法を聞こうと思ってではなく
かつて法然上人の御法話会場で悪事をはたらこうとして潜り込んでいただけでした
法然上人は富楼那の弁舌といわれる大雄弁家で
御法話には多くの人が集まっていたのでした
その法然上人の教えの繁昌は
当時の仏教界が
日本中の仏教が念仏の教えに塗り潰される
との強い危機感から
後に上人を迫害し
親鸞法然両聖人は都から追放されてしまうのです
そんな法然上人の御法話ですから
人の多く集まるところには
金品も多く集まっているだろうとでも思ったのか
床下に潜り込んで上の様子をうかがっていたところ
法然上人が悪人を救ってくださる阿弥陀仏の大慈悲を説かれます
耳四郎はもしや自分が床下に隠れていることを
法然上人が気付いているのではと思うような悪人救済の御説法がきこえてくるので
それは集中して聞き耳を立てていたことでしょう
私達も仏法を聞く時は
自分の噂話をされているのを聞くように真剣に聞きなさいと言われます
他人事だと思っていては聞けないのです
耳四郎はその一座の聞法…とはいっても床下から聞いていたのですが
その一座で阿弥陀仏の絶対の救済にあずかったといわれます
歎異抄の言葉でいうならば
摂め取って捨てられることのない
「摂取不捨の利益」(せっしゅふしゃのりやく)に救われたということです
すべての人に必ずおとずれる死が来ても
絶対に崩れることのない不滅の幸福です
耳四郎のように阿弥陀仏に救われるのが非常に早い人を「頓機」といわれます
反対に阿弥陀仏に救われるのにひまのかかる人は「漸機」といいます
「機」とは仏教で人のことです
法然上人は
漸機の者は多く頓機の者は少ないと言われており
中でも耳四郎はわずか一座の御縁ですから
極めて珍しい人でしょう
耳四郎が自分のような悪人が救わたことを大変驚いたに違いありませんが
そんな耳四郎が驚いで床下から出て来たことを
知られた法然上人もまた大変驚かれたに違いありません
どちらの驚きが大きかったと思われるでしょうか?
その答えは後に譲るとして
歎異抄の真意を解明するには
耳四郎が法然上人のお弟子になってからも
盗みを辞められないでいたということを
よく知っていただきたいのです
法然上人のお弟子になっても
耳四郎はついつい人のものが欲しくなってしまい
盗んだ後で懺悔の涙に暮れるのです
法然上人のお弟子は400人余であったと言われますが
当然のごとく他のお弟子達からは
そんな耳四郎は破門にすべきだと声が上がります
しかし法然上人はそんな意見を聞き入れられず
上人の御前で懺悔に泣き崩れる耳四郎に
「そなたも業が深いのぉ」
とただ一言お声をかけられたのだそうです
阿弥陀如来は全ての人を悪人と見抜かれ
そんな悪人をそのままで救うと誓っておられます
これは歎異抄で最も有名な
「悪人正機」の教えです
「善人なをもて往生を遂ぐ
いはんや悪人をや」
(歎異抄第三章)
これは日本の思想史上
最も有名な一文ともいわれます
この言葉は直接には
唯円という親鸞聖人の高弟が
親鸞聖人からお聞きしたと書き残していることですが
この言葉を先に言われたのは法然上人ではないかともいわれています
親鸞聖人のお言葉として有名になってはいますが
法然上人の教えを伝えることに生涯を捧げられたのが親鸞聖人です
先生の御心を正確に多くの人に伝える以外に
弟子の使命はありませんから
その意味でまさに親鸞聖人にとって弟子の本分でしょう
ただ「悪人こそが救われる」という“結論”は全く違いはありませんが
どうしてそういえるのか
という“理由”の説明は
法然上人の御言葉として残っている記録と
歎異抄とではお言葉が大きく違っていることに
注意が必要です
混同している人も少なくありませんし
どちらのお言葉の御心にも合わない解説ばかりが
横行しています
さて法然上人といえば
権力者の横暴により流刑にあわれた後も
多くの人から学も徳もある尊い僧侶と讃えられていますが
ご自身は
「愚痴の法然坊 十悪の法然」
と懺悔なされています
仏教で最も恐ろしいと説かれる
「阿弥陀仏の本願を疑う心」
は滅して摂取不捨の利益に与ったけれど
愚痴や十悪の煩悩は死ぬまで無くならない悪人だという告白です
その「愚痴」とは宇宙の真理である因果の道理がわからぬ愚かな心ですから
悪いことをすれば悪因悪果で必ず悪い報いが返ってくると
頭ではわかっていても
悪のやまない馬鹿な心です
また人間の造る様々な悪を十にまとめた「十悪」の中には
「偸盗」(ちゅうとう)があります
人のものを盗む罪です
偸盗はまた「不与取」(ふよしゅ)ともいい
与えずして取るということです
決して相手に誰も要らないものを与えるのではなく
相手に幸せを与え
代わりに自らの欲しいものを受け取る
世の商売はお金でこの取引を成立させていますから
万引きは偸盗であるというのは誰でもわかるはずです
しかし
相手の時間を奪うのも偸盗です
待つ身になっても待たせるな
といわれます
万引きはしたことがなくても
相手を待たせるという偸盗罪は
造ったことのない人は無いでしょう
有名な大泥棒
かの石川五右衛門の辞世には
「石川や
浜の真砂は尽きるとも
世に盗人(ぬすびと)の
種は尽きまじ」
と詠んでいます
この五右衛門の命が尽きても
第二第三の五右衛門が現れ
盗人は尽きないという確信は
これほど物質的に豊かになった現代でも
証明され続けています
ここで
「盗人」が尽きないのではなく
「盗人の種」が尽きないと言っていることは注目に値します
大晦日には108回の除夜の鐘が聞こえて来ますが
108の煩悩の数から来ています
ヘソの無い人があっても
この煩悩の無い人はありません
108の煩悩の中でも特に私達を煩わせ悩ませるのが
欲と怒りと愚痴の心の三つです
この欲と怒りと愚痴の心はまた
「十悪」のうち心で造る三つの罪でもあります
無ければ無い欲しい欲しい
あればあったでもっと欲しい
という際限なく求める欲の心が
盗人の種であると言うことができるでしょう
人のものでも欲しいという欲の心こそが
偸盗の最も大きな動機でしょう
腹が立つ相手を不幸にしてやりたいと思って
相手の大切なものを盗んでしまうこともあるかも知れません
また自分より幸せそうな人をみると
そこから引きずりおろしてやりたいという心から
そんな相手のお金や地位や名誉や恋人などを
盗んでしまおうということもあるでしょうが
こんな妬み嫉み憎しみの心も愚痴の煩悩です
これらの盗人の種は
泥棒養成所で泥棒修行をしているような人にだけあるのではなく
すべての人に尽きることがないのです
仏教では口や体の行いよりも
心を最も重く見るのは
盗人の種に限らず
あらゆる口と体の悪の種であるからです
これがわかれば
すべての人は「心の悪人」であると気が付きます
この欲と怒りと愚痴の
心の悪から
偸盗の罪を含め
口や体で造る様々な罪悪が出てきます
これら人間の様々な悪を十通りに教えられたのが
「十悪」です
また煩悩は先の三つの他にも105つあると教えられ
あらゆる人が108の煩悩の塊であり
これを仏教で悪人といわれます
仏教で「悪人」とは「人間」の代名詞であり
善人は一人もいないと教えられるのです
法然上人も例外ではないばかりか
上人ご自身がこの心の悪を阿弥陀如来の光明によって照らされ
深く懺悔なされていたからこそ
耳四郎にも同病相憐れむように親しい法の友よと親近され
「お前という奴はつくづく業が深いな」
ではなく
「そなた“も”業が深いなあ」
と
ただ一声かけられるばかりであったのです
この歎異抄を誤解し
阿弥陀さまは悪人大好き仏だから
悪をするほど助かるのだと好んで悪を行う「造悪無碍」とよばれる輩が現れ
「悪人製造の教え」などと
親鸞聖人の教えは特に非難されました
繰り事ですが
「悪人こそ救われる」という悪人とは
盗人の種でもある煩悩の塊である全人類の事です
心の悪を最も重く見るのが仏教ですが
心だけを問題にするというのもまた誤解です
心だけでなく
口や体で悪を造ればそれだけ鬼の所業を重ねることになります
この罪悪をよくよく見つめなさいという法然上人の教えを伝える立場でありながら
体で造る盗み癖の罪悪を隠すことができなかった耳四郎でした
しかし
それほど悪の染み付いた耳四郎のような者も救われ
また法然上人のお弟子として知られるということで
「私のような悪人など救われるものか」
と卑屈になっている人の
その疑いを晴らす縁にもなっていたに違いありません
かつて釈迦の時代にも
99人もの人の命を奪う無差別殺人鬼から
回心懺悔して仏弟子に生まれ変わった人があり
それをなぞるような師弟のやりとりが歎異抄にも記されています
悪人を救う阿弥陀仏の救済とは
人間を救うということなのです
どんな人も必ず救うということなのです