3.11 震災遺構 中浜小学校
『奇跡の一本松』の、痛々しくも逞しく、尚も枝を伸ばさんとする姿には、心揺さぶられるものがあります。
津波避難情報マップなるもので現在地を確認。
昨年9月東北地方を車で走行中、たまたま近くを通り過ぎ、気がついて引き返してきました。
宮城県山元町の『震災遺構 中浜小学校』
あの日、90人の命を守り抜いた校舎。
大津波の痕跡をできる限り残したまま整備し、震災の教訓を風化させず、災害に対する備え、意識の大切さを伝承する震災遺構として2020年9月から一般公開されています。
来訪者数は毎年変わらず、これまで減少することは無かったそうです。
この日は30〜40人でしたが、一日で数百人が来訪したこともあるとのこと。
最初に目に飛び込んできたのは、根元から折れて鉄筋が剥き出しになった時計台。
時計台は小学校のシンボルでもありました。
校舎の壁のレリーフには魚を獲る人々の姿。
津波は、そのレリーフを隠してしまうほどの高さ(約10m)が。
入り口入ってすぐのホール。
机、イス、下駄箱、さまざまな瓦礫、海岸線に植えられていた松の木も流れ込んでいます。
へし曲げられた壁。
窓、壁、天井、を破壊し通り抜けていった津波の威力。
二階から見下ろしたホール。
校舎の中心に位置する、一階から二階への階段のステンドグラスは6枚中5枚が無事でした。
二階に押し寄せた津波は、左の壁に当たったあと真上にあがり、天井を破壊。
屋上への階段の存在は、普段生徒たちには知らされていませんでした。
階段の先に屋根裏倉庫があることも…。
恐怖と不安の中、90人が昇った屋上への階段。
屋上と、屋根裏倉庫は撮影禁止。
なので、パンフレットにあった屋根裏倉庫を↓↓
屋根が斜めになっており、腰を屈めなければ頭がぶつかるような狭い空間でした。
海から400m 。屋上からの景色。
建造物が何もない、とてつもなく広大な土地。
当時、周囲には家々が建ち並んでいました。
現在は居住不可区域として県が土地を買上げ、農業用地として活用しています。
二階で映像を拝見したあと、(旧)図書室にて展示されている模型や資料を拝見。
オレンジ色の屋根が中浜小学校。
津波や高潮の対策として、2m嵩上げした上に小学校は建てられていました。
一階と二階の天井高は4m+4m、嵩上げ分の2mを足して10m。
襲った津波の高さは10m…ギリギリでした。
もし嵩上げされてなかったら…
もし屋上が、屋根裏倉庫が無かったら…
実は、震災の前々日に先生たちの間で地震時の避難マニュアルについての打合せが行われていました。
翌日の集会では、生徒たちにも意思伝達がされました。
震災当日、全員がスムーズな避難を遂行できたのは、震災時の心構えが備わっていたから。
巨大地震発生→大津波警報発表→避難場所への徒歩避難の時間は無いと判断→校舎の二階へ→
大津波の高さが10mとの情報を得て屋上へ避難したのち、大津波が襲来しました。
もし避難場所へ徒歩避難していたら…
押し寄せる津波、余震の恐怖、寒さの中、一晩を過ごし、翌朝、自衛隊によって全員が救助されました。
中浜小学校は内陸の坂元小学校と統合され、2013年に閉校となります。
「絆」「負けるな東北」「共に笑顔」
小学校の隣に掲げられたメッセージ付きの黄色いハンカチ。
全国からの支援に応えるべく、毎年行われているそうです。
東日本大震災から今日で13年。
地震大国の日本に住むものとして、今すぐすべきことがあるのでは??
日々の心構えと備えをしていきましょう。
撮影日: 2023年9月16日
ari-kaz