わたしはこれまで何かにつけ
心のずっと奥深いところで
自分の貢献に見合う賞賛を得られていない
と感じていたように思う。
過小評価されている。
わたしの功績はもっと大きいはずなのに
わたしがいるおかげで、この場が円滑に流れているのに
わたしがいるおかげで、みんなが気持ちよくいられるのに
わたしの貢献が、みんなの当たり前を支えているのに
わたしがいなかったら、もっと劣悪な環境になっているはずなのに。
誰もそのことに気づいていない
誰もその事実に目を向けてくれていない
誰もその事実を認めてくれていない。
わたしがさらりとやっていることも
他の誰かがやろうとしたら、さらりとはいかないのに。
もっと評価されていい
もっと賞賛されていいはずだ
もっと感謝されていいはずなのに。
いっそ、わたしがいなくなって
そのとき初めて気づけばいいんだ。
みんな困って、混乱して
わたしのありがたさを知ればいい、痛感すればいい。
そのときじゃ遅いけどね...。
そんなひねた思いを
ずいぶん長いことくすぶらせてきたようだ。
その記憶の一部は
小学生くらいからすでに始まっていたように思う。
つい最近まで
それが "エゴの声" だとは気づかなかった。
自分の意思だと思っていた。
完全に
エゴと自分が一体になっていたから。
これまでの出来事を振り返り
一段引いた視点から観察して
「状況」と「思考」と「感情」を丁寧に切り離してみると
それほど感謝されていなかったわけでもなく
それほど大それた犠牲を払っていたわけでもなく
どれも強い ”思い込み” に過ぎなかった
と気がついた。
さらに不思議なことに
そんなに恨みがましく思っていたワケでもなかった
とも気がついた。
そうしたら
精一杯に力を込めながら
自分の正当性を主張してきた自分の姿が
いじらしく感じられた。
認めてほしかった。
何も貢献できていないなんて思いたくなかった。
その思いは
一体どこから来ているの?
ゆっくりと
自分の内に意識を向けていく。
”役立たず”
父がよく口にした言葉。
父の思うように機転を利かせられないと
吐き捨てるようにコレを言われた。
存在価値が一瞬で消されてしまうような
恐怖だった。
当時のヒヤッとした体感も呼び起こされた。
本当はどうしてほしかった?
助かったよ
役に立ったよ
貢献できてるよ
よくやったね
素晴らしいよ
ありがとう
そう言って
認めてほしかった。
感謝されたかった。
ルーツがわかり
しかも
いつの時代もわたしは
役立たずなんかじゃなかった
(実際父にも誉められたり感謝されたりもした)
とフツーにわかり
そもそも
はじめの思い込み自体が真実じゃない
と明確にわかると
一気にモヤが晴れていった。
そして本当は
父や誰かじゃなく
自分自身にかけてほしかったんだな...
わたしを過小評価していたのは
他でもなく
わたし自身だったんだな...
という気づきに至った。
自己完結。
自作自演。
ずいぶん長いことこじらせたなぁ(呆)
気づきはとてもパワフルだ。
気づきは、ソースと同調していないと訪れない。
ヴォルテックスの中心の周波数帯にあるものだから。
「状況」と「思考」と「感情」を切り離して
背後から観察している場所に ”気づき” は在る。
そしてその場所に ”明晰さ” が流れ込む。
わたしの最も心躍るところ。
何かに気づいたとき
全身を駆け抜ける「はっ!」という電気信号がたまらない。
わたしにとって至福の歓び。
わたしは気づきを求めて生きている。
その歓びを誰かに伝えたくて生きている。
誰かが同じように歓んでくれる ”共感” を得たくて生きている。
たぶん