【響の軌跡】(6)

 のちに東儀祐二の妻になる宮崎幸は昭和5年、東京に6人兄弟の末っ子として生まれた。父親の静二は大学で英語の非常勤講師をしながらヘボン式ローマ字の普及運動に努めていた。

 20歳年の離れていた長兄がクラシック音楽のファンだった影響で、家にはレコード音楽が流れていた。そこでクラシックに親しんだ幸は、小学校入学前にはバイオリンを始め、小学生のころは、東京市市制記念の催し物でバッハのブーレを演奏したり、傷痍(しょうい)軍人の慰問を行うなど、天才少女として注目を集めた。

 また、中学校の数学教師だった次兄が、バイオリニストで東京芸大教授の兎束龍夫の子供を教えていた縁で昭和24年から1年と10カ月の間、兎束のもとに通うようになる。そしてその次兄が「せっかく勉強するなら良い大学で」と、芸大受験を進めてくれたという。

 その年の離れた兄たちが着るもの、食べるものを与えてくれたといい、芸大1回生の秋には、高額だったメニューインの演奏会チケットもプレゼントしてくれたのも、幸にとっては良い思い出になった。

 東京育ちの元天才少女が、京都出身で音楽は雅楽からスタートしたという異色の経歴を持つ1学年上の青年に出会った舞台は東京芸術大学。2人はやがて結婚の約束をするようになる。

 兄たちにかわいがられてきた幸を嫁にもらうのは一苦労と思ったのか、祐二は結婚の申し込みを宮崎家にするために、父親だけでなく師事した兎束を伴って出かけたという。

 ただ、幸は芸大を卒業する昭和30年、祐二に「もう1年だけ学校に行かせてちょうだい」と頼み、専攻科に進む。幸は、シゲティが来日し、芸大で公開レッスンを行ったさいに学生代表としてバッハのシャコンヌを弾くほどの優秀な生徒だったのだ。

 一方、学生時代から「関西には良い先生がいないから僕が帰って先生になるんだ」と話していた祐二だが、幸を待ってその間、東京フィルハーモニー交響楽団の第2バイオリン首席として活躍した。

 結婚を約束すると、祐二は幸の実家である宮崎家に親しく出入りするようになった。高校時代の同級生で、京都大学を卒業後、東京で司法修習生として研修中だった前川信夫はそのころ、祐二に連れられて宮崎家を訪れたことがあるという。「祐二君は何も言わずに私を宮崎家に連れていったのです。幸さんは家にいなかったのですが、祐二君とご家族との会話でその家のお嬢さんと結婚する予定であることが分かってびっくりしました」と思いだす。

 家を出てから前川が「何も言わずにひどいやないか」と言うと、祐二は「スマン、スマン」と謝ったそうだが、前川は「今もなぜ宮崎家に連れていかれたのか分からない」という。少し照れ屋の祐二が、高校時代からの親友に結婚することを報告したかったのだろうか。

 一方、そのころの大阪では、相愛学園が「子供の音楽教室」を開講したばかり。東京・桐朋学園で早期教育に取り組んでいた齋藤秀雄らの力も借りて、関西の講師陣を拡充させようとしていた。

 京都大学を卒業後、相愛学園で助手をしていた酒井諄(相愛大学名誉教授)は31年2月、東京・虎ノ門で祐二と幸に面会し、祐二に相愛学園への就職を依頼した。そこで祐二は「京都出身でもあるし、今後は関西での活動を考えたい」ときっぱり話したという。

 「幸さんも同席していました。2つ返事だったと記憶しています。私も京都出身で話が弾んだのを覚えています。31年の春の新学期から相愛短大音楽科の専任講師として働いていただくことになりました」と、酒井は振り返る。

 そして、31年3月4日、東京・イグナチオ教会で結婚式を挙げた祐二と幸は、その日の晩に夜行列車に飛び乗り、関西に居を移したのだった。(安田奈緒美)

【関連記事】
山崎さんが琴を演奏 宇宙で初の和楽器合奏
エキストラ活動と学費工面 ラジオ番組「君の名は」でも演奏
京都に帰郷 音楽科へ編入
宮内省楽部で始めたバイオリン
世界を代表するバイオリニストの源流
「高額療養費制度」は、もっと使いやすくなる?

中大で替え玉受験 合成写真見抜けず、合格取り消し(産経新聞)
格差是正へ雇用基本法=参院選公約に盛り込み検討-民主党(時事通信)
ニューハーフ不正結婚、フィリピン人女に逮捕状(読売新聞)
医師不足や保険制度めぐり3議員が意見―医療政策シンポ(医療介護CBニュース)
「日米同盟深化へ協議」=外交・安保公約-民主素案(時事通信)