Shaman Art Journal

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悪い子が良い子に、良い子が悪い子になるブログ!

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原発反対だと云ってる人たちは責任が取れるのだろうか? 原発を推進する人たちは責任を取れるのだろうか? つくづく無責任だと思う。インテリと呼ばれる人間は特にそうだ。人は万人のことを考えることなど出来はしないのに、自分流に考えることしか出来ないのに、、。

自分を信じるってことは、自分で責任を取るってことだ。だから信じることをしない人は、自分で責任を取ろうとはしない。自分が信じられないから、誰かの意見や考えに賛同したり反対したりする。他者を権威と崇めたり、あるいは尊大になって他者を見下す。

信じることをしない人は徒党を組む。集団的になる。そしてそこにイデオロギーを打ち立てる。人は不安や心細さから、このような自己強化や自己拡大をはかる。やがて集団のイデオロギーが世の中で幅を利かせる。集団はどこへでも押しかけて行って、自分が正しいと云っては他者を打ち負かす。しかも集団は匿名であるから罪悪感はない。だから責任も取らない。

大衆、群衆には恐ろしい力が潜んでいる。集団の中には怪物が棲んでいるのだ。それは政治や宗教の世界において、よりいっそう顕著に現れる。右、左といったイデオロギーに「私」はない。インテリぶったジャーナリズムは口を揃えて「日本のため」「国民のため」と云うが、彼らは「日本とは自分の中にあるのであって、それは魂である」ことに気づいてない。

インテリとは自分の都合のいいように考えるからインテリなのであって、彼らには反省がない。間違えを認めない。しかるに同じ過ちを何度でも繰り返すことだろう。彼らに出来ることは、解釈であり、知識であり、観念化であるにすぎない。このように彼らは「直接の経験」を妨げている。これが、つまり信じる能力を失ったと云うことなのである。

自分の心こそ疑いのない事実である。だから、やってみないことには何も分からない。とても危険なことだから自分で責任を取らなければならないのだ。これは覚悟の問題である。「私」がいて、このような主観がないかぎり客観はあり得ない。直接の自分を知ることなど、とうてい出来はしない。

徒党を組まずソロで行動する魔女が多いのは、こうした理由からである。カヴァンにしても、せいぜい10人前後のサイズだろう。このサイズについてトルストイが面白いことを云っている。「村のサイズは、おーい!と呼びかけて相手に届く範囲がいい、畑のサイズは石を投げて落ちた範囲がいい」どちらも生体的な適性を言い当てている。

メタボな自我をシェイプする。「知足」とは、そのようなものだろう。

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哀愁のミュゼット
http://m.youtube.com/watch?v=xVvR2cdpCHQ






病気になった時、はじめて人は健康の有り難さを知る

自由を失った時、はじめて人はその素晴らしいさを味わう

戦争になった時、はじめて人は平和の尊さを実感する

愛を失った時、はじめて人はその大切さに気づく

そして人は死を前にした時、生を考えはじめる



「私は◯◯派だ」などと宣言する連中の話ほどつまらないものはない。何故なら彼らの話は「先ず結論ありき」だからだ。それは何が真実なのかを探究しようとする姿勢ではない。

右でも左でもなく、上でも下でもなく、また前でも後ろでもなしに常に中庸であり続けるためにはバランス感覚が必要だ。

それだけに周りからは嫌われる。そうアウトサイダーは常に孤独なものだ。

シャーマンは独り、静かに歌いながら森を歩く。
現代の巫女は、男の神主や禰宜が執り行う祭祀の補助的な役割に甘んじているが、本来は「神子=みかんこ」「御巫=みかんなぎ」と呼ばれ、霊的職能をもつ絶対的な存在として崇められていた。歴史上の人物としては、邪馬台国の女王・卑弥呼がいる。彼女は「鬼道」という呪術を操るシャーマン、つまり神と深く結びついた女性として知られている。

ちなみに「巫」とは「神降ろしの舞」を表す漢字だと云う。神を喜ばす舞いと云えば、神話「天の岩戸」に登場するアメノウズメが有名である。彼女は男神たちが集う宴席でストリップ・ダンスを踊った。これが「神楽舞」のはじまりであり、のちに白拍子や出雲阿国へと伝承されていった。いまでもアメノウズメは芸能の女神として、その世界では人気を集めている。
古代の宗教文化と女性の関わりを見た場合、もっともプリミティブで重要なのは「地母神」だろう。より尊崇の念で「大地母神」とも呼ばれている。地母神は文字通り大地の神であり、農耕の民にとって大地は生きていくための食物を育む、いわば基盤である。

農耕文化では「男=種」「女=畑」に喩えられるが、それはともかく、女性の出産能力になぞらえて作物の豊穣を祈るという原始心性から地母神という素朴な信仰が生まれたのだろう。それが宗教の原型となっていることは云うまでもない。

この地母神が、のちの神話に女神として登場するイザナミやオオゲツヒメであり、またこれらの女神が民話として形を変えたのが瓜子姫であり山姥である。

こうした信仰は洋の東西を問わず、古代世界では各地に生まれている。古代ギリシアの地母神ガイアもそのひとつだろう。日本では縄文中期の遺跡から女性像の土偶(ビーナス)が発見されているが、これも豊穣祈願の儀式用に作られたと云われている。
母から娘へというように血縁や家系として受け継がれるシャーマンは「世襲型」と呼ばれる。これとは別に、ある日突然として神霊に召し出されたように巫業に就くシャーマンがいる。これを「召命型」と呼ぶ。この世襲型と召命型のいずれも内発的なものではなく、シャーマンとしての宿命を背負わされた女性と云える。

世襲型とも召命型とも違って、自らの意志とその選択によって巫道を歩く決意をし、師匠のもとで修行を積んで巫女術を学んでゆくシャーマンがいる。これを「修行型」と云う。
神に仕えてその託宣を人々に伝える役割は、古来より日本では女性が担ってきた。女神アマテラスを原像とする彼女たちは「神の子=巫女」と総称され、神霊を託言する。云うならば、女性シャーマンである。

こうした巫女の系譜は、神社に専属して神事を司る神社巫女と、神社を離れ各地を漂白する民間巫女に分類される。神社巫女は主として神託を行い、民間巫女たちは神託だけでなく亡者の霊も降ろす。
思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるか

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になる
 
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格にな
 
性格に気をつけなさい、それはいつか運命に

古からの怨念に縛られし血族の妹たちよ

その呪縛を解き放ち 我がサバトへ集え

シャーマンが歌い、巫女が舞う

魔女が宙を翔び、鬼女が地を転げる

霊性を目覚めさせよ、開かれた愛を祝え

今宵は我らが復活祭!

 梵のブログ-spd01