セドナメソッドの意味も急に降ってきた(笑)
バシャール経由して
解説してみる。あくまで私専用備忘録ですので、正確に本の内容を説明できているとは言いません。
でも、私と同じように「言語化」の壁に苦しんでいる方の羅針盤になる可能性も。
参照「人生を変える一番シンプルな方法~世界のリーダーたちが実践するセドナメソッド~」
私もあらかたこれ系(何系?)
手をつけてきてますのでセドナメソッドもやった事あります。
本も持ってます。
(そもそもセドナメソッド?それ何、美味しいの(^q^)?という方は自分でググってね!)
セドナメソッドは
効果ばつぐん!
究極!
という話もよく目にしました。
が!(出た
私は正直よくわからなかった。
んーーー、まぁ手放せたかなって時は何か抜けてく「感覚」はありますし、楽になったことも沢山ある。
でも、飽きる。
よく分かってないので
「人生を変える一番シンプルな方法」 より引用
「今、何を感じていますか?」
「その感情を認めることはできますか?」
→はい/いいえ
「それを手放せますか?」
→はい/いいえ
「それを手放しますか?」
→はい/いいえ
「いつ?」
→今
やってるうちに
オリャアッ
(ノ-_-)ノ~┻━┻
めーんーどーくーさーいーわーーー!!
ってなる。
これも「型」。
「術理が分かってない型」をやるのがまだ苦痛な時期だったので。
そして、そうやって嫌になるときや拒否反応が出るときの対処法、これをする意味は何なのかも本に書いてあるし
ネットで調べてレスター博士(本の著者ではなく、セドナメソッドの創始者)
がどうやってこのセオリーにたどり着いたのか、とか読むだけは読んだ。
でも、そこまで調べて読んでも
?
先の質問
「手放しますか?」
これ「いいえ」なら「いいえ」で構わないのですがそうすると
「手放したくない気持ちを認められますか?」
という質問に移るので
(では、もっととっかかりやすいところからいきましょう、という優しい意味なのに)
この尋問感
このやらされてる感
「手放します!今!」
と言うまで許してもらえないこの追い詰められ感
うん。自分で本見て一人で勝手にやってるだけですよ。なのに、ここに陥る(笑)
もうやめてぇぇぇぇ。
MasaMi のライフはもうゼロよ!
みたいな気持ちになる。
↑ではその気持ちを手放しますか?
に、逃げられない・・・。
うん、何度も言うけど自分一人で自分を追い詰めてるだけだからね。
でも何故か諦めきれずに、本の整理をしても毎回「これはいるな」と思っていた。
そんなこんなでたまーーーに気が向くと
「手放しますか?」とかやってた程度だったのですが
はたと気付いた。
私、バシャール動画観て、本読んで、それを元に内観とかやってるとき結局このプロセスを踏んでたんだ!!と。自分の興味があること、楽しいこと、探求してて苦じゃないルートを進んでいたら進めなかったルートも連動して開いた!
〈BASHAR2006〉より引用
はい、この図。 ざっくりいうとバシャールによればこの三角形は人のパーソナリティの成り立ちを示したものです。
人はこのパーソナリティ、いわばフィルターを通して青写真、大いなる源(宇宙)とやりとりをして、現実という経験をします。このフィルターを通って宇宙とやりとりした結果が現実の経験となるから、現実を見て自分はどんなフィルターを形作っているのかを知れる、のが【投影】の意味。
私は「観念」の概念は入りやすかったので、ひたすら「観念」はなんだろう?を頼りに自分を掘っていたらしい。
そしてパーソナリティの三角形は
《観念・感情・ふるまい》
で一つの形。これでワンセットです。
ピンときたでしょうか
観念を見付けて、それを変える(手放す)と決める
=
その観念から発生している感情も変えると決める
=
感情を手放す
です。
観念だけに特化してたけど、観念が変化するということは連動して感情もふるまいも「変わる」ということ。
変える、手放す、じゃなく。
気付いたら変わってた。
結果、手放せてた。
(型と術理の話に繋がる
①型と波動とexcitement)
セドナメソッドを使いこなせた人は
感情を手放すという入り口から入って
古いパーソナリティの三角形を手放せたと推測される。
あとは
「感情」とか「感じる」という言葉に騙された。
感情ってそもそもただの感覚、ただのエネルギーなので言葉になる前のもの。
キューッとなったりザワザワしたり、もやがかかったり、そういうもの。
それに「怒り」とか「悲しみ」とか「感情」とか名前をつけて言葉にしているけど
厳密に言うと
「怒りという感情を感じている」
と言葉に出来た時点で、私は感じているのではなく観察している。
言葉にした時点でそれは「感情」ではなく「行動・反応・ふるまい」である。
怒りという反応。
感覚に怒りと名付けた、という行動。
感じているときは「それ」そのものなので、「私」はいない。
「感じる」とは
「感じに行く」とか
「感じるをする」という行為ではない。
勝手になってるものだから。
朝起きたら「私」でしょ?
気付いたら「私」。
朝起きて、「さて【私】スーツ着るか」、ってやらない。それと同じ。それが意識の仕組み。
感覚でしかない「それ」に便宜上「感情」という名前をつけて皆呼んでいるけど言語化した時点で本当は違うと私は分かっていたのだろう。
言葉にした時点で
「それを言語化する作業を行った私という意識」と
「それそのもの」との距離が出来る。
「感情を感じる」という言い回しはあまりにも自分の体験しているものとズレている。
「怒りの感情」とか名前をつけるといかにも手放せそうな、形のありそうなもののような気がするけど
「感覚」なので
たとえばムズムズしたかゆみの感覚があったとして
「そのムズムズを手放しなさい」と言われても
どうやって??
そもそも「何を感じていますか?」に対しても頭の中で
「言葉で何か聞かれた!!言葉にして返さなきゃ!えーっと感じる?感じるってなんだ?感覚?あったかい、とか冷たい、とか何か言葉にしなきゃいけないの?」
と大混乱となる。(なってたらしい)
うん。何度も言うけど、質問してるの自分だからね。なのに、言葉で答えなきゃ!考えなきゃ!とワタワタする
頭のなかでこうなってたら、他者に対しても言語で何かを伝える事なんて出来るわけがない!!
私にとって「その感情を手放せますか?」という質問はそれくらい無理難題な質問だった、ということ。
もし今の私がセドナメソッドを使うなら。
心のなかでやるにしろ、声に出すにしろ
「今、何を感じていますか?」
「・・・・・」←心の中で慌てて言語にしない。返答しない。あったかい感じ、とかこんな色、こんな形というイメージもしない。なにもしない
ただ感じる。ただ在る。
「それを感じている事を認めることができますか?」
「はい」←ここでやっとイメージを使う。「それそのもの」と「私という意識」は別の物だと認めることが出来た段階。
「それを手放せますか?」
「はい」←「私という意識」ではない「さっきのあれ」から離れればいいんだな。だったら、はいと返事が出来る。
「それを手放しますか?」
「はい」←私の意思で離れるか?という意味だな。もう「それそのもの」は過去のものだから、なくても大丈夫。だから「はい」と答えられる。
「いつ手放しますか?」
「今」←いつでもいいから、今にします。もう古いしね。
離れました。手放しました。完了です。
色字の部分の解説を自分で出来るようになったら、やっと意味がわかった。
そもそも「手放す」は英語の「let go」なので「解放する・釈放する・暇を出す」などの意味。
私がそもそも掴んでいるので、放すだけ。
私が後ろから羽交い締めにして拘束している。やってるのは私だ。犯人は私だ!手を放すんだ!(笑)
だから最速
「今?」
「・・・」
「手放す?」
「はい。今」
でいけるってことです。
めちゃくちゃ遠回りしたけど
目の前にあった、ってやつですね。
青い鳥。
これ、言葉にできない世界を無理矢理言語で解説してるので読んでる方はさっぱりでしょうが、私用の備忘録ですのでご了承を。
これを解明する前は
「この感情(感覚)の元となっている観念(信じていること)を手放してもいいですか?」
という質問にすると
うおーーーー!!!
めっちゃ意味わかる!!!
はいはいはいはい!
手放します!はりきりすぎ
こっちは楽だった(笑)
なんでだろ?
観念は言葉に出来る、という観念だったのかな。相変わらずややこしいわ
ついでにもう一個気づいたことが。
そして続く。
バシャール経由して
解説してみる。あくまで私専用備忘録ですので、正確に本の内容を説明できているとは言いません。
でも、私と同じように「言語化」の壁に苦しんでいる方の羅針盤になる可能性も。
参照「人生を変える一番シンプルな方法~世界のリーダーたちが実践するセドナメソッド~」
著者:ヘイル・ドゥオスキン
私もあらかたこれ系(何系?)
手をつけてきてますのでセドナメソッドもやった事あります。
本も持ってます。
(そもそもセドナメソッド?それ何、美味しいの(^q^)?という方は自分でググってね!)
セドナメソッドは
効果ばつぐん!
究極!
という話もよく目にしました。
が!(出た
私は正直よくわからなかった。
んーーー、まぁ手放せたかなって時は何か抜けてく「感覚」はありますし、楽になったことも沢山ある。
でも、飽きる。
よく分かってないので
「人生を変える一番シンプルな方法」 より引用
「今、何を感じていますか?」
「その感情を認めることはできますか?」
→はい/いいえ
「それを手放せますか?」
→はい/いいえ
「それを手放しますか?」
→はい/いいえ
「いつ?」
→今
引用ここまで
やってるうちに
オリャアッ
(ノ-_-)ノ~┻━┻
めーんーどーくーさーいーわーーー!!
ってなる。
これも「型」。
「術理が分かってない型」をやるのがまだ苦痛な時期だったので。
そして、そうやって嫌になるときや拒否反応が出るときの対処法、これをする意味は何なのかも本に書いてあるし
ネットで調べてレスター博士(本の著者ではなく、セドナメソッドの創始者)
がどうやってこのセオリーにたどり着いたのか、とか読むだけは読んだ。
でも、そこまで調べて読んでも
?
先の質問
「手放しますか?」
これ「いいえ」なら「いいえ」で構わないのですがそうすると
「手放したくない気持ちを認められますか?」
という質問に移るので
(では、もっととっかかりやすいところからいきましょう、という優しい意味なのに)
この尋問感
このやらされてる感
「手放します!今!」
と言うまで許してもらえないこの追い詰められ感
うん。自分で本見て一人で勝手にやってるだけですよ。なのに、ここに陥る(笑)
もうやめてぇぇぇぇ。
MasaMi のライフはもうゼロよ!
みたいな気持ちになる。
↑ではその気持ちを手放しますか?
に、逃げられない・・・。
うん、何度も言うけど自分一人で自分を追い詰めてるだけだからね。
でも何故か諦めきれずに、本の整理をしても毎回「これはいるな」と思っていた。
そんなこんなでたまーーーに気が向くと
「手放しますか?」とかやってた程度だったのですが
はたと気付いた。
私、バシャール動画観て、本読んで、それを元に内観とかやってるとき結局このプロセスを踏んでたんだ!!と。自分の興味があること、楽しいこと、探求してて苦じゃないルートを進んでいたら進めなかったルートも連動して開いた!
〈BASHAR2006〉より引用
はい、この図。 ざっくりいうとバシャールによればこの三角形は人のパーソナリティの成り立ちを示したものです。
人はこのパーソナリティ、いわばフィルターを通して青写真、大いなる源(宇宙)とやりとりをして、現実という経験をします。このフィルターを通って宇宙とやりとりした結果が現実の経験となるから、現実を見て自分はどんなフィルターを形作っているのかを知れる、のが【投影】の意味。
私は「観念」の概念は入りやすかったので、ひたすら「観念」はなんだろう?を頼りに自分を掘っていたらしい。
そしてパーソナリティの三角形は
《観念・感情・ふるまい》
で一つの形。これでワンセットです。
ピンときたでしょうか
観念を見付けて、それを変える(手放す)と決める
=
その観念から発生している感情も変えると決める
=
感情を手放す
です。
観念だけに特化してたけど、観念が変化するということは連動して感情もふるまいも「変わる」ということ。
変える、手放す、じゃなく。
気付いたら変わってた。
結果、手放せてた。
(型と術理の話に繋がる
①型と波動とexcitement)
セドナメソッドを使いこなせた人は
感情を手放すという入り口から入って
古いパーソナリティの三角形を手放せたと推測される。
あとは
「感情」とか「感じる」という言葉に騙された。
感情ってそもそもただの感覚、ただのエネルギーなので言葉になる前のもの。
キューッとなったりザワザワしたり、もやがかかったり、そういうもの。
それに「怒り」とか「悲しみ」とか「感情」とか名前をつけて言葉にしているけど
厳密に言うと
「怒りという感情を感じている」
と言葉に出来た時点で、私は感じているのではなく観察している。
言葉にした時点でそれは「感情」ではなく「行動・反応・ふるまい」である。
怒りという反応。
感覚に怒りと名付けた、という行動。
感じているときは「それ」そのものなので、「私」はいない。
「感じる」とは
「感じに行く」とか
「感じるをする」という行為ではない。
勝手になってるものだから。
朝起きたら「私」でしょ?
気付いたら「私」。
朝起きて、「さて【私】スーツ着るか」、ってやらない。それと同じ。それが意識の仕組み。
感覚でしかない「それ」に便宜上「感情」という名前をつけて皆呼んでいるけど言語化した時点で本当は違うと私は分かっていたのだろう。
言葉にした時点で
「それを言語化する作業を行った私という意識」と
「それそのもの」との距離が出来る。
「感情を感じる」という言い回しはあまりにも自分の体験しているものとズレている。
「怒りの感情」とか名前をつけるといかにも手放せそうな、形のありそうなもののような気がするけど
「感覚」なので
たとえばムズムズしたかゆみの感覚があったとして
「そのムズムズを手放しなさい」と言われても
どうやって??
そもそも「何を感じていますか?」に対しても頭の中で
「言葉で何か聞かれた!!言葉にして返さなきゃ!えーっと感じる?感じるってなんだ?感覚?あったかい、とか冷たい、とか何か言葉にしなきゃいけないの?」
と大混乱となる。(なってたらしい)
うん。何度も言うけど、質問してるの自分だからね。なのに、言葉で答えなきゃ!考えなきゃ!とワタワタする
頭のなかでこうなってたら、他者に対しても言語で何かを伝える事なんて出来るわけがない!!
私にとって「その感情を手放せますか?」という質問はそれくらい無理難題な質問だった、ということ。
もし今の私がセドナメソッドを使うなら。
心のなかでやるにしろ、声に出すにしろ
「今、何を感じていますか?」
「・・・・・」←心の中で慌てて言語にしない。返答しない。あったかい感じ、とかこんな色、こんな形というイメージもしない。なにもしない
ただ感じる。ただ在る。
「それを感じている事を認めることができますか?」
「はい」←ここでやっとイメージを使う。「それそのもの」と「私という意識」は別の物だと認めることが出来た段階。
「それを手放せますか?」
「はい」←「私という意識」ではない「さっきのあれ」から離れればいいんだな。だったら、はいと返事が出来る。
「それを手放しますか?」
「はい」←私の意思で離れるか?という意味だな。もう「それそのもの」は過去のものだから、なくても大丈夫。だから「はい」と答えられる。
「いつ手放しますか?」
「今」←いつでもいいから、今にします。もう古いしね。
離れました。手放しました。完了です。
色字の部分の解説を自分で出来るようになったら、やっと意味がわかった。
そもそも「手放す」は英語の「let go」なので「解放する・釈放する・暇を出す」などの意味。
私がそもそも掴んでいるので、放すだけ。
私が後ろから羽交い締めにして拘束している。やってるのは私だ。犯人は私だ!手を放すんだ!(笑)
だから最速
「今?」
「・・・」
「手放す?」
「はい。今」
でいけるってことです。
めちゃくちゃ遠回りしたけど
目の前にあった、ってやつですね。
青い鳥。
これ、言葉にできない世界を無理矢理言語で解説してるので読んでる方はさっぱりでしょうが、私用の備忘録ですのでご了承を。
これを解明する前は
「この感情(感覚)の元となっている観念(信じていること)を手放してもいいですか?」
という質問にすると
うおーーーー!!!
めっちゃ意味わかる!!!
はいはいはいはい!
手放します!はりきりすぎ
こっちは楽だった(笑)
なんでだろ?
観念は言葉に出来る、という観念だったのかな。相変わらずややこしいわ
ついでにもう一個気づいたことが。
そして続く。