酒好きヴォーカーズ 名古屋 -16ページ目

酒好きヴォーカーズ 名古屋

ダングォファンを世界中につくる!という構想を掲げ活動中!
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運とご縁のあいだ

 

 

 

雨の降る金曜の夜、俺はいつものように古いアパートの窓辺に座って、日本酒の四合瓶を傾けていた。
ラベルには「運がいい」と書いてある。誰かの洒落っ気だろう。笑ってしまうほど陳腐で、でも妙に心に刺さる。俺は三十路を過ぎてから、妙な本を読み漁る癖がついた。
スピリチュアルなものから、魂、霊、神、仏の捉え方を変えるような本。
呼吸法、ヨガ、武道、ツボの不思議に触れ、「氣」の流れを理解しようと試みた時期もあった。
犯罪心理学や猟奇事件の本も読み、人が意図せず鬼や悪魔に変わる瞬間を知った。催眠、薬物、憑依——そんな闇の側面。
それらを通じて、俺は「運」という言葉の曖昧さに気づいた。
 

運とは、人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせ。
一般的な定義だ。でも、それなら努力で引き寄せた出会いや出来事は、何と呼ぶ?
「ご縁」か?
哲学的に考えてみれば、運は運命論的な受動性を持ち、ご縁は仏教的な因果応報や、人間関係の積極的な構築を思わせる。
運はギリシャ神話のモイラのような、不可抗力の糸。ご縁は東洋の縁起のように、相互依存の網目。
どちらも主観的だ。良くも悪くも、自分の解釈次第で変わる。
 

俺はそんなことを、酒を飲みながら一人で考えていた。最近、ネットで「親ガチャ」という言葉を知った。
最悪の親に当たった人間は、それだけで一生負け組だ——そういう意味らしい。
画面を眺めながら、胸の奥がずしりと重くなった。
俺の両親は、別に最悪ではなかった。でも、確かに「最高」でもなかった。
中庸の、なんとも言えない灰色の運。
 

ここでまた哲学が頭をよぎる。
アリストテレスの中庸の徳のように、運の極端を避け、均衡を保つ生き方。
でも、現実はそんなに理性的じゃない。親ガチャは、ニーチェの永劫回帰を思わせる

——この人生を何度でも繰り返す覚悟があるか?
運を呪うより、受け入れて超越するしかないのかもしれない。「運って何だ?」
独り言が部屋に響く。
 

努力や意思ではどうにもならないもの。
そう定義するなら、俺の人生のほとんどの出来事は「運」の範疇に入ってしまう。
だが、運を他人や神仏に委ねる生き方は、いつから始まったのだろう?
宗教の影響は明らかだ。太古の神話から、運命を神々に預ける習慣。
一神教の選民思想や、仏教の業の連鎖。
俺は宗教団体への嫌悪感を抑えられない。
対立を煽る者たち、女性や子供の人権を軽視する教義、差別や奴隷制度の影。
哲学的に言えば、カントの道徳律のように、普遍的な人権を尊重すべきなのに、現実はヘーゲルの弁証法

——対立が歴史を進める。
でも、そんな対立で生まれる戦争やトラブルは、運の悪循環を生むだけだ。
 

日本では人権が尊重され、選択の自由があることに感謝するが、政府のコントロール下でそれが失われる現実を、最近身に染みて感じた。
運は個人のものか、社会の産物か?
マルクスの階級闘争のように、運は構造的な不平等から生まれるのかもしれない。

 

二十三歳の夏、初めて好きになった子とすれ違った駅のホーム。
あと五分早く家を出ていれば、彼女は俺の隣に立っていたかもしれない。
あと三秒早く振り返っていれば、目が合っていたかもしれない。
でも現実は、五分遅れ、三秒遅れ。
彼女は誰かと笑いながら改札を抜けていった。
これを運の悪さと呼ぶなら、哲学的にはエピクロスの原子論——原子の偶然な衝突が世界を形作る。
出会いと別れのタイミングが、運の良し悪しを決める。
「もっと早く出会ってたら」「もっと早く別れてたら」——そんな後悔は、ハイデッガーの時間性のように、過去の投企が未来を規定する。それから何年かして、別の女と付き合った。
三年続いた。
最後の半年は地獄だったのに、別れた瞬間、なぜか「もっと早く別れていれば」と思った。
 

また運か。
出会うタイミングも、別れるタイミングも、全部運任せなのか?
いや、ご縁なら違う。ご縁は、ソクラテスの対話のように、他者との相互作用で育むもの。
運はデカルトの二元論——精神と物質の分離された偶然。ご縁はスピノザの汎神論——すべてが繋がった必然。

 

ふと、自分の腕を見下ろした。
六十兆個の細胞が、今この瞬間も死に、産まれ、入れ替わっているという。
太古の昔から繋がってきた命の鎖が、この身体を形作っている。
考えるとぞっとするような、でもどこか温かい奇跡。
これは運の産物か?
進化論のダーウィン的に言えば、自然選択の偶然。
でも、哲学的に深めれば、ヘラクレイトスの万物流転——すべては変化し、新陳代謝する。
この身体は、運とご縁の交差点。命の連鎖が、ご縁の網を織りなす。

 

俺は酒をもう一口含んだ。
「ご縁」という言葉が頭に浮かぶ。
運とは違う。
運は受動的で、ご縁は……少しだけ能動的だ。
いや、違うかもしれない。
結局どっちも、自分の都合のいいように解釈できるだけの言葉だ。
 

プラトンのイデアのように、理想的な運やご縁は存在せず、現実の影に過ぎないのかもしれない。

近所のコンビニでバイトしている若い女の子が、最近よく俺のことを覚えてくれている。
「いつもこれですねー」と笑いながら、決まったチューハイとつまみを袋に入れてくれる。
それだけでちょっと嬉しい。
 

これが運なのか、ご縁なのか。
たぶんどっちでもいい。
ただ、そこに一瞬の温もりが生まれた。それだけで。
哲学的に言えば、フッサールの現象学——経験そのものが本質だ。

 

テレビのニュースが流れてくる。
またどこかで宗教絡みの揉め事。
選民思想だの、救済だの、対立を煽る声。
俺はリモコンで音を消した。
そういうものに自分の「運」を預けたくない。
預けたくないのに、世の中のあちこちで誰かが勝手に預けて、勝手に振り回している。
ニーチェの神は死んだ——運を神に委ねる時代は終わったはずなのに。

 

窓の外、雨はまだ止まない。
瓶の中身もあと少し。
俺は静かに呟いた。「運がいい日も、悪い日も、
結局は自分がどう名付けるかだけなのかもしれないな。
運とご縁の哲学は、存在論的に言えば、自己の解釈が世界を創る」そう言ってから、ふっと笑った。
なんだか少しだけ軽くなった気がした。
 

明日は晴れるかもしれない。
降り続くかもしれない。
どっちでもいい。
とりあえず、今夜はもう一杯だけ飲もう。そして、
この雨がやんだら、
また誰かと、
ほんの少しの「ご縁」を拾えるかもしれない。俺はそう思って、
静かにグラスを傾けた。

 

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