好きの理由 | INClaireの音楽な日々

INClaireの音楽な日々

内藤郁子INClaireが、音楽について日々思うことや生活の中の音楽の話を書きます
音楽のたくさんのジャンルで、壁を作らず線引きだけして、
どれも体験して、魅力の違いを比べるのがおもしろい
音楽って一曲ずつそれぞれの魅力だと思います


Chère Musique


いろいろな友だちといろいろなところに行きました。
その一緒に旅する友だちに、郁さんの「美味しい!」は当てにならない、と言われてしまったことが何度かありました。 
どこに行って何を食べてもおいしい。

なぜおいしいと感じるかというと。。。



例えば一番最初に「郁さんの美味しいはあてにならない」と言われたのは、若い頃に10歳以上年下の若いお友だちと大勢で イタリアの田舎町を訪ねた時のこと。
一緒に旅をしていた声楽の師匠の、知り合いのお宅を訪ねました。
牧場をやっていて、そこでチーズやいろいろ手作りしていました。
村の人のためのレストランもやっていて、 そこでお食事をご馳走になりました。

とても素朴でいかにも地元の人が普段食べているんだなと思えるようなスープをいただいたり、その牧場でその師匠のお友だちが手作りをしているチーズやバターをいただいたり。
そのとっても癖のある個性的な、日本人にはちょっと馴染みがないような香りのスープの味付けが、本当にその時の私には美味しく感じたのです。
一緒に行ったその若い友人は残してしまって、 もう食べられない、ごめんなさいって正直に言っている人も何人もいました。

なぜ私は「美味しい!」と言うのか。


その旅でまた別のところに行って食事をした時、またその土地のスーパーで買えるようなおやつを食べていた時、「郁さんの美味しいは全然あてにならない。何を食べても美味しいって言うんだもの」と言われてしまったのです。 
その友人たちは、客観的に料理の味をしっかりと味わって、そして美味しいものは美味しい、 美味しいと思えないものは思えないというふうに、正直に真っすぐに判断していました。



私の場合は私は味で言ってるのではないのかも知れません。 
ですから逆に言うと、料理を語る資格はないということですね。
環境が美味しい、 状況が美味しいということがあると思うのです。
観光客が行けないようなイタリアの田舎町の地元の人がやっている小さな牧場でお食事をさせていただけるなんて、そういう人たちが作っているチーズやバターを食べさせていただけるなんて幸せだわ。
そんな経験滅多にできないよね、という気持ちが美味しかった。
その作ってくださった方のお人柄が美味しかった、ということなのではないかなと自分で思います。 


もちろんその若い友だちも作ってくださった方、招いてくださった方に対しては心からの感謝を示していました。
純粋に料理として美味しいか美味しくないかではなくて、万が一美味しくなかったとしても、感謝の気持ちとは別に、おもしろい、つまり楽しい、 幸せ、という気持ち。
そういう気持ちが美味しいという言葉になって出てくる。 


例えば飛行機の機内食などもそうです。
私の周りでは、○○航空の機内食は美味しいよね、○○は美味しくないよねというふうに、皆さんキチンと正しく客観的に語ります。
ですが私は、今から旅に行くという喜びで美味しくなってしまうのです。
別に良い人ぶっているわけではありません。
本当にそうなってしまうのです。


ですから、旅先などの状況で美味しくないものは美味しくないと言える、食べないという選択ができるという方が、ずっと冷静で客観的で正しいですね。 
何でもかんでも美味しい美味しいという人は、なんだか良い人ぶっているようでおもしろくない。
客観的で冷静で正直なことが言えるという方が、本当にその旅をきちんと味わっているということになるのかな、と思う時もあります。
私が嘘をついてるわけではないです、本当に美味しいのでね。





なんだか料理の話が長くなってしまいましたが。。。

嫌い、好きじゃないというふうに言ってしまえる音楽作品がありません。
今はあまり惹きつけられない、興味をそそられない、ということはありますが。

それはなぜかというと、作った人間を思わずに聴くことがないからなのですね。
ですからそういう私のような人は、音楽学者にはなれないです。


演奏に関してもそうです。
本当は音そのものから味わうべきなのですが、演奏者が友人の場合その人自身のことをいろいろな角度から思いながら聴くこともあります。
特に歌はそうです。
楽器の演奏は歌に比べたら少し冷静で客観的な感じになれるかなと思いますが、歌はやはりその人の体から出てくる声という音ですから。 
言葉もあるし、その人の人間がそのまま音楽になって現れてきます。
 

直接知り合いではない人、例えば有名なアーティストさんのコンサートに行くなどということでしたら、客観的に良い演奏かどうかということを聴き分けることはもちろんできます。
客観的に良いのか良くないのかということと、自分が感動するかどうかというのは、また別の視点。 
それをしっかりと別ものとして判断することもできます。


何よりも大切なのが、本物の演奏を聴けたときに、それにきちんと反応することができるということですね。 
これは知り合いでももちろん出来ます。 
これができなかったら音楽家とは言えないですもの。
本物を聴けた時にあ!と思える判断力、耳。



こういう性格は、もしかしたら先生という立場ではちょっとイイことなのかもしれないなと思うこともあります。 
客観的に見て完璧でないと良いと言ってあげられないのではなく、その生徒さんの状況や心境、個性やいろいろな事情などが先生の頭の中で混ざって、それらをすべて融合して考え、 その時のその生徒さんの中では完璧ですと言ってあげたいと思ってしまう。
これはもしかしたら良いことなのかなと思うこともあります。

今日は、それ自体を客観的に見ることができるかどうかというのは、食べ物も演奏も同じ。 
「好き」と言う時のその理由という話題でした。


Musique, Elle a des ailes.