・・・それは 商売上手なのですかね?

ふふっ。
解っているんだから あえて私に聞かなくていいよ。
どういう目的を持とうが 何の問題も無い。
間違いも無い。
色とりどりなそれぞれの考え方を
一色単に答えようもないだろう?
例え お金儲けの為に人の心を利用する者がいても
誰ひとりもその者を罰することは出来ない。
私がすでに許しているからね。
高いだけの価値が在ると 納得する者もいるだろうし
そうではないと思えば そこから離れるだけだ。
安くても文句を言う者は言う。
高い安いも自分の物差しだからね。

 確かに。
それに求めている答えと提供できる内容が
違う場合が 大いにありますから。
そうなると 値段の問題じゃなくなります。
その上 カウンセラーなんだから 
自分を納得させて当然
助けられて当たり前・・・なんて。

 被害者意識が在る者からすれば
助けられて当たり前とも思うだろう。
「人助けをする」という立場の者に
要求をして当然だと。
それもまた 招き寄せ合っている関係だと言える。
その看板(カウンセラー)に
引き寄せられているのだからね。

する側 される側 要求する側 される側。
信じている概念同士がその役割を果たす。
 だが どんな結果であろうと その食い違いでさえ
本当は意味が無いような体験にも意味が在り

互いにとっての「助け合い」は すでに成されている。

 ん~~そうですね。
誤解も理解へ導くためのもの。
皆やりたいようにしかしていない。
自分にしていることを人にもしているだけだし。

 自分がしていることしか人に出来ない。
人にしていることは 自分の中にある。
だから 根底の概念が一緒なら 
自分が右にも左にも上にも下にも転ぶだろう。

やはり「何々とは こう在るべき」という概念は
必要ありませんね。
同じお題 看板 目的を掲げようが
その内容もそれぞれの思いも違いますから。

 ただ 引き寄せ合っている それがすべてだ。
自分が意識している所だけでなく
無意識にも君達の選択が在り
君達の考えでは 及ばない。
それでも意識していることも無意識も
君達の選択には違いない。

ええ。
私達の選択の結果は ひとつじゃない
確かにそう思います。
見ている所が部分的なだけで。
だったら お金への見方も本当に
それでいいのかなんて 
考えても本当かどうかは解らない。
正しい答えなんて出しようも無い。

 ああ。そうだね。
「お金」という曖昧な価値基準に
自分の目的や意味合いを付けて
自分や人を判断したりしなければいい。
図りようも無い思いへの金額に
誰もが納得できる正解なんてない。

「選び 決めるも自分」なのだ。
これまでの話を理解し 安心出来れば
お金への良い悪いの概念は消え去り
どんな立場の者であろうと
「そうしよう」と直感が導いてくれる。

それが「自分の妥当」さ。