どうしてせっかく整ったエネルギーを乱そうというのか?

 

その業界を捨てるというのに、

 

どうしてその業界もどきと付き合い続けようとするのか?

 

誰とも会いたくないと言ったのはホンネではないのか。

 

本来の自分で生きようと決断したのなら。

 

本来の自分に合った人々と会うことではないのか。

 

 

 

それは本当に好みなのか。

 

それが本当に好きなのか。

 

 

 

うわべの優しさであることに気づかねば先には進めないのではないか。

 

彼らの下心に気づいていながらどうして手を貸そうとするのか。

 

そんなうわべの応援が本当に本人のためになるというのか。

 

路頭に迷えばいい、苦しめばいい。

 

放っておくことが愛なのだ。

 

そのことに気づいているにもかかわらず。

 

自分を偽って生きてきた報いから、誰も逃れることはできない。

 

そうして苦しまないと学べないと、

 

そう設定しているのは彼らなのだから。

 

邪魔してはいけない。

 

わかっているのに、なぜそうしないのか?

 

 

 

 

 

 

 

絶対的な価値の尺度は存在する。

 

 

 

 

それが『エネルギー』

 

 

 

 

 

というと、ものすごく捉え所がなく、

 

抽象的で、科学的に実証できず、

 

提唱者の主観のみが価値判断基準になりがちで、

 

それが盲信的な狂信に映ることだろう。

 

真面目に日々おつとめに励んでらっしゃる方がそう考えるのは当然だ。

 

 

私も最初そう思って拒絶だったし、、

 

 

 

 

基準はとてもシンプルで、

 

 

 

いい感じ

 

気持ちいい

 

サッパリ

 

爽やか

 

軽やか

 

ステキ

 

スゴイ

 

最高

 

 

 

そういう言葉で表現される。

 

その言葉の選択自体が直感的かつ感情的なために、

 

論理思考を判断基準にする人からすれば嫌悪感があるかもしれない。

 

 

 

 

 

たしかに、

 

「好き」「嫌い」

「いい」「好みに合う」

 

という次元であれば、、

 

それは自分の物差しによる評価基準であるから、

 

そこには絶対的な尺度なんてものはない。

 

 

 

 

しかし、

 

 

「ホンモノ」

 

「わかっている」

 

は、違う次元の話。

 

 

 

 

人間についていえば

 

『本来の自分を生きているかどうか』

 

突き詰めると、ほんのそれだけしかない。

 

つまり、やりたいことをやっているか。

 

生きたいように生きているか。

 

本当に、たったのそれだけなのだ。

 

 

 

 

本来の姿、最高の姿を追求すると、そのものが持つ本質的な美にたどり着く。

 

その辺を見分けるセンスは、特に日本人がDNA 的に抜きん出たものを持っていると思う。

 

 

 

 

刀研ぎ師の本阿弥光悦さん、剣術の宮本武蔵さん、茶道の千利休さん、政治軍事の豊臣秀吉さん、、、

 

現代なら宮崎駿さん、レディガガさん、イーロンマスクさん、スティーブ・ジョブズさんなど。

 

 

いうなれば『達観している』人たち。

 

ホンモノである。

 

もちろんそのような有名人・著名人だけでは決してなく、名も知らぬ方の中にも達観されている方はいる。

 

 

ただ、地上の人間世界では、

 

達観した人は言うこと為すこと在り方が一般の人々と大きく異なって見えるために、

 

目立って、結果、有名人になっているに過ぎない。

 

 

 

『本来の自分を生きている人』

 

 

ほど、心のクリア度が高い。輝いている。

 

クリア度とは、生き方の純粋さです。

 

自分を偽って生きている人ほど、クリア度が低いため、発するエネルギーが濁っている。輝いていない。

 

 

 

 

 

言い換えれば、

 

 

『想うこと、言うこと、行動すること』

 

 

この三つの間の差が小さければ小さいほど、その人は本来の自分を生きている度合いが高いと言えるだろう。

 

 

 

例えば、

①想う ああー仕事行きたくない

②言う 「今、仕事行きたくないな」

③行動 仕事半休する。午後やる気出てきて仕事行くorステーキ食べて休む

 

こんな感じ。

 

 

 

 

しかし、真面目で一生懸命な人ほど

 

 

①想う ああー仕事行きたくない。でも行かなきゃ。みなさんに迷惑かけられないし・・・

②言う 「・・・(無言)」

③行動 普通に通勤する

 

 

そんな感じ・・・

 

 

そう判断する人たちを責めているわけではない。

 

しかし、クリア度が高い人ほど無理しないものだ。

 

それはあなたの普段の言動や行動からも、当てはまるものがあるだろう。

 

最高の仕事をするためには、自分を最高の状態に保つ必要性を理解していらっしゃる方だからこそ。

 

 

 

 

 

世界的なオペラ歌手ルチアーノパバロッティ氏は生前ドタキャンで有名だった。

 

それは歌手にとってベストコンディションでステージに臨みたいという心意気だろう。

 

中途半端な気持ち、状態で本番に臨むのはあまりにリスキー!

 

 

 

 

情報発信をする立場の人なら尚更そうだ。

 

いいエネルギーの時に発信すれば、いいエネルギーが世の中に伝わる。

 

反対に疲れていて悪い淀んだ時のエネルギーで発信すれば、そのエネルギーが世の中に広まってしまう。

 

だからルーティンを苦しみながら続けるなんて愚はすぐにやめるべきだということを、既に理解してもらったと思う。

 

 

 

では、自分を偽って生きている人はダメな人?価値が低い?

 

決してそうではない。

 

生きとし生けるものみな等しく尊い。

 

私も含めて、誰もが人生の途上にいる。

 

 

 

 

そして、クリア度が高い人はイコール人格者では決してなくて、

 

むしろ

 

『オーバー人格者』

 

という感じ。

 

人格者であることを捨てた先に、真の人格者の領域が待っている。

 

一般庶民基準からいえば、人格者はすでにクリア度が高いこともあるが、、、(魂年齢500歳くらいまでの話)

 

 

その世間一般で言う「人格者ふう」は、天界的には全く正反対。

 

むしろ、本人が覚醒するのを妨げる試練です。

 

 

 

 

 

お気づきの通り、魂年齢に応じて、必要なメッセージや行動は全く異なったものになる。

 

だから人間ですら、人によって使う言葉や伝え方を選ぶわけだが。

 

 

 

一般庶民に向けたメッセージは大切。

 

だが、高い次元に行こうと思うなら、高い次元のメッセージを下ろす必要がある。

 

そして、一般庶民にマッタク伝わらないことを受容せねばなるまい。

 

それができるかどうか、である。

 

 

偽りを捨て本来の自分を生きよ!

 

image