「なぜ誰にも共感されないようなこと言うんでしょうか?」
「ぬ」
「庶民や愚民と呼ばれていい気分になる人がどこにいるのでしょうか?
共感できない話をする人に誰がフォロワーになるというのでしょうか?
私たち一般庶民が求めているのは共感なんです。
あぁわかるとか、ああそうそうと思えることなんです。
相川先生のおっしゃるような言葉ではないんです。
ダメな自分をわかってくれて認めてくれて、大切にしてくれる人がいいんです。
暴君にしか見えません。
暴君はハバネロで充分です」
「ふん」
「そういう傲慢、独りよがりの姿勢でいる限りは誰からも同意を得られません。
全てお言葉が的外れで、私たちが求めている優しさとは違うんです。
認められたいんです。
頑張ってるねと言われたいんです。
偉いねと言われたいんです。
そのままでいいよって言われたいんです。
それなのに、無理やり何かを強いられても、とてもお話を聞けませんよ」
「へぇ」
「・・・・」
「で?」
「はい。すいません、私はそうは思ってませんが、
この間、先生のブログやYouTubeをみた方がそのようなことを言っていたので代弁しました。
それを聞いた時、この人は何もわかっていないと思いました。
ですが、同時に湧いた疑問があります。
それは『庶民の反応を知っていながら、なぜ相川先生は厳しいことを言い続けるのか?』と言うことです。
意味のないことをおっしゃる人ではないというのは、ここしばらく教えていただいてわかったことです。
一つ一つの言葉に重みがある。
もちろん薄々理由には気付いていますが、言語化することを僕がするのはおこがましいと思ったんです」
「ふむ」
「ともあれ、僕からしても、先生のようにダイレクトな表現をすることは安易に真似できるものではないようです。
それは、僕自身にも自分を守りたいという意識があるからです。
自分はこう思うということをはっきり表現すると、大多数の人々はそう思わないわけですから、、、
否定的な反応を受けるでしょう。
そして、大多数の人々は感情的で破滅的な反応を選ぶことでしょう。
なぜなら、彼らは感情、つまりエネルギーがもたらす創造の原則を知らないからです。
知らないし、知っても信じないからです。
お花畑、非現実的。
良くてもただ一握りの天才や成功者だけに適用可能な魔法だと感じてしまうんです。
自分自身の存在が惨めでダメなものだと諦めて生きることをスタンダートとして設定しているために、
そうではないことを目の前に突きつけられると不快感を覚えるのです」
「そこだよ」
「はい」
「つまりだね、私は大多数の庶民にメッセージを伝えることは捨てたのよ」
「はい」
「だいたい、庶民だ愚民だなんて言えば、自分は庶民じゃないのか?という問題にぶつかるだろう?
私自身、ごく普通のありふれた九州の家庭に生まれ育った四人兄弟の長男なわけだよ。
まぁ運よく偏差値の高い大学に入れたけれども中退したし、
そりゃあ知名度の高い大企業に就職したけど一年で辞めたし」
「そんなことを気にされてるとは知りませんでした!人間っぽいですね!」
「アハー。いやいや。ない。言っただけ。庶民向けに。
彼らは目に見えるものしか信じない傾向があるからね」
「はい」
「こう見えてもこの15年間は、一般庶民向けにメッセージを伝えようとしてきたのだよ。
そうしなければならないと思っていたのだ。
しかし、2019年2月に悟りを得たときにわかったのだよ。
偽りを捨て本音で生きるしかないと。
そのための障壁が、一般庶民に厳しい言葉を告げることだった」
「お聞きしました。当時の側近に『去れ。貴様らの顔など2度とみたくない』とお伝えになったんですよね。
そんなこと言ったら相手から一生恨まれるでしょうし、
人でなしと言われるでしょうし、
もはやモラハラ・パワハラ・セクハラの全てに該当してしまうかもしれませんよね。
これは言葉のあやですが、そこまでリスキーと感じられることをダイレクトヒットされたことの意味はなんでしょうか?」
「断ち切るためである。決断とは決めて断ち切ることをいう。
私は私の役割を果たすしかないと腹を括ったのだよ」
「元からそうされていたのだと思いました!」
「そうでもない。人からよく思われたい。いい人だと思われたいという煩悩を抱えて生きていたからだ。
その煩悩が雑念となり、本心を伝えないというためらいになっていたのだ」
「まさかそんなことを感じられていたとは!!元から宇宙人で人間的な感覚なんてないのだと思っていました!」
「よく言われる。だがそうだった。と、少なくとも私は思っているよ」
「そうなんですね」
「いちおうね日本の一般庶民はじめ、政治家、経済人、お金持ち、貧民、どのような人々の意識・考えていることというのも受信しようと思えば受信できる。そうして受信した時に気付いたのだ」
「できるんですか?宇宙人のような方なのに!」
「そこは定義によるだろうね。ともあれ。
感じたのは苦しさだ。競争心。それしかない。99%の人々はね。
その人々の中にはこんな人がいるようだ。平均より上であることに安心を覚えている人々。
これは私が通った早稲田のような高学歴レイヤーの連中だね。この連中は脆い。結局、他人と自分を比べて、平均より上を維持しようという意識で精一杯。誰かの幸せなんて考える余裕なんてない。
一方、平均以下と自己定義して諦めている人たち。自分たちは負け犬。だから負け犬なりに負け犬らしく下層階級で幸せをつかもう的な話。下品で低次元なアニマル衝動に生きる人もたくさんいるようだ。無料で見れるYouTubeだとかTwitterとか見てるのはこんな人たちのようだね。まさにアニマルだ」
「・・・・」
「スピーク」
「そんな風に人を定義できるものでしょうか?ステータスや収入で?」
「できないよ。本来は。だが、残念なことに2020年10月時点の日本ではできてしまう。
嫌だけどね。
つまり、私が言っているのは彼らがそう『自己定義』しているということだ」
「そうでしょうか??それなりに幸せに生きているのではないでしょうか?」
「だろうね。それはそれ。本人の魂はそうは思っていないよ。
人間がこの地球に生まれてきた意味は成長するためだからね」
「幸せに楽しく生きれば成長するというわけではないんでしょうか?それじゃダメなんでしょうか?」
「人間界の言葉でそれを表現し切るのは難しい。私はそれをしようと試みてきた。だから、声。だから歌だと思うよ」
「それは人間界の言語を超えた伝達性があると直感されているということでしょうか」
「そう」
「・・・」
「私はVIPを導く。それがラクなのだよ」
「VIPとはお金持ちや影響力ある人のメンターであるということでしょうか??
それはつまり一般庶民とVIPは意識レベルが違うから一般庶民は見捨てているということでしょうか?
それこそが僕が冒頭で言葉を借りて質問させていただいたことの意味です。
一般庶民といえども人間ですから気づくはずです。自分たちは馬鹿にされ、見捨てられていると。
そうやって無視され馬鹿にされたら誰だって傷つくし、そんな仕打ちをする人を快く思うはずありません。
それには気付いてらっしゃるはずなのに、どうしてそう受け取られてしまうようなことをおっしゃるのか。
それこそがお聞きしたいことなんです」
「理由ない」
「はい」
「理由なんてないよ。そう感じるからそう言ってるだけ」
「・・・つまり本音でいらっしゃると?」
「そう」
「本音が現実世界で明らかに有害になることがわかっていても本音を伝えると?」
「そう」
「・・・・」
「難しいと感じている。そうだね?無理だ、ありえない、不可能だと」
「はい・・・。ええ。・・・・わかりません。難しいというか、はたしてそれが正しいことなのか。
僕は相川先生の弟子ですから、わからなくてもとりあえずその通りにします。
しかし、察するに世の大多数は同意しない。そうでしょう。
世間の風潮としては、本音は絶対に言ってはならない、です。
例えば婚活です。
プライドが高くて結婚できない40歳の女性にプライド捨てろなんて絶対に言ってはいけないそうです。
なぜなら本人のプライドが高いからです。
だから、やんわりと本人が気付けるように遠回しに時間をかけて伝えることがよしとされているのだとか。
それなのに相手が傷つく可能性100パーセントの言葉をダイレクトヒットさせるのでしょうか??」
「理由なんてないよ。ただそれが本音だから」
「・・・・」
「本音を信じることだ」
「・・・・はい」
「自分を守っている人がどうして相手のためになれるというのか?
相手のためなら命を投げ出すのが武士道ではないか?
そうして命がけで本音でいきた人が歴史を切り開いてきたのではないか?
保身の先に何があるというのか?君はそれでいいのか?
可もなく不可もなく生きるために生まれたのか?
使命を生きるために生まれたのではないか?
そうだとしたらなぜ本音を言わないのか?
本音は魂の声だ。
魂の声が間違うことはありえない。
それで社会から追放されたからといって何が不都合だというのか?
そういう人間が社会に大きな変革をもたらしてきたのではないか?
君は何者か?
使命を果たせ。
偽りを捨てよ。
本来の自分を生きるのだ」
「・・・はい」
「わかったら偽善者の仮面を捨てろ」