琵琶湖行きたいなーー

 

ということでフラっと琵琶湖へ!

 

京都はこういうのが手軽で素晴らしい。

 

30分もあれば湖。

 

歩いて五分で繁華街。

 

ゴルフ場も湖も、剣道も盛んだから全く素晴らしい。

 

 

琵琶湖は釣り人の聖地。

 

子供の時からずっとずっと夢だった。

 

何度、琵琶湖の釣りのことを書いた記事を読んで、いつかここで釣りしたいと願ったことだろうか・・・

 

 

当時は釣りブームだったから、子供たちの間ではバス釣りが流行。

 

かっこいい道具を使って自転車で海や山へ。

 

ずいぶん両親に遠い湖まで連れて行ってもらったものだ。

 

バス釣りとなると早朝と夕暮れ以外はほとんど釣れないから、必然的にまだ暗いうちの出発になる。

 

両親へ感謝だ。

 

こうして自由な大人になったけれども、湖と対峙したときの感覚は子供の時と全く同じだ。

 

風の匂い、水の流れ、雲の様子。

 

たまらなく好きだ。

 

水辺が。

 


 

ブルーギルの稚魚が釣れた。

 

琵琶湖ではキャッチリリースが禁止らしいので、釣れたら陸地の箱に投機せねばならないらしい。

 

ブルーギルは食べたことがないけれども、バスさんたちはとても美味しい。

 

締めて捌いて料理するのはかなり手間がかかるけれども、命をいただくのだからそれくらいしないと。

 

 

 

琵琶湖にはモンスター、ビワコオオナマズが生息しているらしい。

 

(こんな感じらしい)

 

夜行性らしいので、私が釣りをしてた場所でも、長い釣り竿を仕掛けたじもと釣り人がいた。

 

漁師さんもいる、日本最大の湖、琵琶湖。

 

 

 

 

日が暮れてきた。

 
暑い日だったから、こうして日がくれるときに吹く生暖かい風が、1日の終わりを感じさせる。
 
電灯がない時代の人々の暮らしは、今よりずっと夜が暗かったことだろう。
 
私は夜は暗い方が好きだ。特に蛍光灯の明かりというのが苦手で、学生時代にはわざわざ四畳半の明かりを取り替えて裸電球にしたくらいだ。
 
イタリアの家庭で照明に蛍光灯を使っているウチを見たことがなく、どこも上手に間接照明を共している。
 
それか蝋燭だ。
 
大抵、壁がしっくいで白いので、この照明がよく反射して、部屋全体がぼおっと明るくなるのだ。
 
夜のそういう柔らかな明るさの中で、ワインを飲みつつ夜景を眺める時間はとても贅沢である。
 
ナポリに戻れる日が待ち遠しい。
 

 

 

先日のゴルフはレンタルクラブだったので、中古でクラブを揃えてしまった。

 
これで三セット目。
 
一つはオーストラリアに、一つは弟が。
 
釣りのセット、剣道のセット、刀に電子ピアノ、それからゴルフセット・・・
 
 
ひらひらさん
「借りぐらしの部屋が手狭になってると思うんです。そう、察しているんですよ」

 

 

うん、、、まあ

 

ひらひらさん

「長い棒が好きな動物だからなぁ」

 
そうなんです!
 
ということで、ナポリピザのけんじ君のお店へ。
 
 
相変わらず抜群にうまい!!

 

 

 
一枚でお腹パンパン
 
プロとアマチュアは違う。
 
と、以前は思っていた。
 
プロ意識を持つこと、一流になれるように日々努力すること。
 
そうなりたいから必死で勉強していたし、日々自分のトレーニングに、レッスンに勤しんでいた。
 
たまに、そういうストイックな反復練習を、今でもしたくなる。
 
しかし、思うのだけれど、釣りにしてもゴルフにしても、歌や声のことにしても。
 
同じなのではないか。
 
プロだから●●しなければならない。
 
アマだから××でいい。
 
 
人がそう言うのを聞くときに、違和感を感じるのだ。
 
ある世田谷の音楽ホールの方が
 
「アマチュアはただ楽しむことですよねー!楽しければいいですよねー!」
 

と言っていた。

 
ああ、この人は、なんかバカにしてるんだなと感じた。
 
私もそういう言い方や態度をとってしまうことがあるからわかる。
 
剣道でもそうなのだけれど、プロ・一流であらねばならないという意識は、苦しさを生みやすい。
 
勝たねば、勝たねばになってしまって、すごいプレッシャーだそうだ。
 
 
私はそういう意識がとても強かったので、世界で一流と呼ばれる音楽、歌手、レストランやブランド、権威と呼ばれる研究者の本だけに極力触れるようにしていた。
 
 
アマチュア下らん、そうだと思っていた。
 
 
しかしそれは誤解。
 
偏ったものの見方だった。
 
じゃあ子供の書いた、パパ・ママの似顔絵は?
 

 

両親からしたらルノワールよりピカソよりも貴重で心が温まる絵だろう。
 
シャネルやグッチのバッグをプレゼントされたら嬉しいだろうけど、自分宛に書かれた手書きの手紙とその人が好きな花のブーケだったら?
 
 
歌や声もそうだ。
 
プロだとかアマだとかそういう『前提』はいわば思考の産物であり『偏見』をうむだけ。
 
結局ジャッジしようという心の動きで、本来いらないものだった。
 
私が声の先生として意識しているのは、ホンネ。
 
ホンネなのか、本来の声なのか。
 
その人の魂は何を言わんとしているのか。
 
その人の命は、どんな人生を送りたいと言っているのか。
 
表面上の言葉やロジックにはあまり興味がなく、それよりもむしろその内側にある心の働きに注目する。
 
でなければ、今はカラオケ採点ソフトなんかがあるし、そういう機械でレッスンすればいいと思う。
 
人と人。
 
向き合って五感で感じることは、いまだスーパーコンピューターを遥かに超えているから。
 
そういう私自身の人間としての機能を大切にしたいし、直感を頼りに生徒さんと向き合いたいのである。
 
論理を超えて。
 
そういうレッスンを求めている方が、頼んでもないのに私の目の前に現れてくださることがありがたい。

いつもそうだけれども。

こういうひとに伝えたい。

そうイメージしていると、不思議とその人が目の前に現れるのだ。
 
引き寄せの力は、いつでもどこでも確実だから。