大悟の視線は、目の前を行くカップルに注がれていた。

そのカップルの男の方は、薄い黄色の長袖シャツ、それにブルージーンズ。
女の方は、紺と白の横縞のストライプと、黒いレザーのミニスカートに、白いふわっとした丸いニット帽といった出で立ちだ。

年齢は、男の方が23歳、女の方が30歳ほどだろうか。

『私、そろそろ結婚したいと思ってるんだけど』
『あははは、僕にはそんな気はないよ』

『あなたは私のことを愛してないの?』
『好きだけど、もっと遊びたいんだ』

『お母さんから、まだなのって急かされるの』
『まだです、って即答すれば?』

大悟が座っているカフェのテーブルからは、もちろん、そのカップルの会話が聞こえることはない。

『ねえ、どこ見てるの』

詩織は、大悟が何かを見つめながらブツブツ言っているのをいぶかしみながら言った。

『え?ああ、彼らの会話をシュミュレーションしてたんだよ』

大悟は、あのカップルにチラッと目配せしながら答えた。

『へぇ』
『解説するとね、あの男の方は、多分、サラリーマン三年目で渋谷勤務。それから彼女の方は、新橋の人材派遣会社の事務員。二人は、彼女の友達の冬美が主催した合コンで知り合った。冬美は、身長153センチくらいの小柄で声が大きくて、ややハスキーボイスの持ち主で、、、』

『何それ?!』
『僕の勝手な想像だけど、そういうの考えてしゃべるの好きなんだ』

大悟と詩織は、横浜の赤レンガ倉庫付近にあるカフェのオープン席に座っていた。
4月の程よくあたたかい日差しと、海辺の爽やかな風が心地よい。
いわゆる、デートには申し分のない日曜日の、日差しが傾き始めてきた頃合いである。


大悟は、田舎の高校から都内の某有名大学に通いはじめて日が浅い。
吉祥寺の女子大に通う詩織と出会ったのは、つい二週間前のことだった。

詩織は、はじめてのデートだというのに、よそのカップルの会話と関係性についての解説を聞かされ、呆れつつ、楽しんでもいた。
それよりも、この、そこそこイケメンで学力優秀(に違いない)で、いささか喋りすぎるのが玉にきずの彼が、自分の彼氏になったらいいなと思っていた。
なんとなく、周りの友人に対して、ことさら自慢するわけではないが、誇らしい感じがするからだ。

ともあれ、ここまでのデートを振り返ってみても、自分の扱いはとても丁寧にしてくれているし、会計は全部払ってくれている。
横浜という選択も悪くない。
きっと、地元ではモテたに違いない。

大悟の視線が、右から歩いてくるカップルに寄せられた。

『今度はどのカップル?』
『ほら、あの二人。日焼けして短髪の男と、ロングヘアでカールした茶色い髪の女。あれはね、表参道在住。今日は横浜に愛車のメルセデスSLKできたんだよ。二人はいちおう結婚してて、もう7年目。男が39歳で、女が38歳。子供はいないんだけど、うん、男の方はアパレルの営業マンから仕事をはじめて、10年目に独立。都内に5店舗セレクトショップを経営してる。それから、、』

『女の方は?』
『北海道出身だね。』

『なんで?』
『え?だって、着てるワンピースがサーモンピンクだから』

『何それ。じゃあ、さくらんぼ柄だったら山梨出身?』
『いや、東京都出身だね。』

『なんで?』
『大塚愛のファンだから』

『大塚愛のファンが東京出身とは限らないんじゃない?』
『いや、そういうもんなのさ。福岡ならホークス、関西なら阪神、東京なら大塚愛なの。あなたと私、さくらんぼ』


詩織は呆れた。
この人は、ひょうきん者だけれど、言葉のはしばしから、頭の回転の速さが伺われる。
ふと、ある人気ドラマシリーズの主人公の決め台詞を思い出した。
ある大学教授が主人公で、その頭の回転の速さと、斬新な発想で、数々の事件を解決してしまうという筋書きである。

詩織は、大悟の横顔をみながら、そのドラマの登場人物になったような気がしていた。
その時、大悟の細い目が、さらに鋭くなった。
詩織は、自然とその視線の先にある対象物を発見しようと、同じように首を向けた。

『うーーん、、』
『今、どのカップルを見てるの?』

『あれは、、、、』
『え?』


大悟が、向こうのカップルに気づかれないように細心の注意を払うかのように、小さなカフェテーブルの上におかれた右手の人差し指を、ひょこひょこと動かした。

詩織も、その人差し指の先にいる二人に焦点を合わせた。

『うっわあ』
『だね』

そのカップルは抱き合っていた。
いや、抱き合っているというような詩的な表現を用いるには、いささか躊躇われるほどのシロモノだった。

大悟は、一度、ナショナルジオグラフィックの番組で、タイトルが動物の世界の驚異だったか、ナメクジの交尾というのを見たが、目の前に繰り広げられているのは、まさにそれだった。

そのカップルは、抱き合っていた。
そして、濃厚すぎて気が遠くなりそうなほどのキスをしていた。

赤レンガ倉庫前の広場の中心で。

二人の脳裏には、赤レンガ倉庫の壁沿いや、氷川丸の暗い船内といった選択肢はよぎらなかったのだろうか。

『大悟くん、、、』
『・・・・二人は、アフリカのモザンビークで生まれた。1980年のある夏の日のことだった。』

『日本人じゃないの?』
『両親が日本で宗教的迫害を受けていて、それでモザンビークに移民したのさ。』

『幼なじみ?』
『そう。二人の両親は、同じタイミングでモザンビークに移民してきた。二人は13歳まで、灼熱のアフリカの太陽を浴びて育った。ところが・・・』

『二人は、ある事件を境に、離れ離れになるのね』
『その通り。東インド会社の商人たちが、イギリスの貴族向けに奴隷を買い付けにきたんだ』


『1980年よね』
『そういう社名なんだ。モガンバ川かザンベジ川か、川の名前は定かじゃないけど、とにかく二人とも川で遊んでいるときに捕らえられて、そのままガレー船の薄暗い貨物室に詰め込まれた。』


『1980年よね』
『あくどい会社なんだ。一ヶ月の航海ののち、イギリスのサウザンプトンについた時には、二人ともすっかり弱っていて、別々の主人に売られて行くのを、追いかけることもできなかった。』


『それから?』
『バオバブ君は、、、』


『日本人じゃないの?』
『ご両親がアフリカらしい名前をつけたかったんだ。太郎とか花子みたいなものさ。ある日ご主人が馬車ででかける時に、横を走ってついていった。そしてバオバブ君は、馬車の速度を超えて走った。主人の貴族はびっくりして、こいつはオリンピック選手にしようと決めたんだ』


『女の子の方は?』
大悟は、目を閉じて、下を向いている。
10秒ほどたったろうか。
例のカップル(アフリカ系?)は、相変わらず、濃厚なキスを続けている。
通り過ぎる人たちが、写メを撮影していることなど、ものともしていない様子だ。


『ワンガリ・マータイちゃんは、貴族の邸宅で、』
『日本人じゃないの?』

『ご両親が、アフリカらしい名前をつけたかったんだ。道端アンジェリカとか、滝川クリステルみたいなものさ。マータイちゃんは、来る日も来る日もホットケーキを焼き続けた。ご主人様の好物だったんだね。』
『英国紳士ね』


『その通り。そして、ある朝、その紳士の愛人が彼の邸宅にお泊まり保育に来ていて、そのホットケーキを一緒に食べたんだ。すると彼女は感動!マンマミーア!』


『イタリア系だったのね』
『そう。感動した彼女は、すぐさま、自分の経営しているレストランのメニューにそのホットケーキを採用した。すると、イギリス中で話題になって、マータイちゃんは大忙しになった』


『イギリス人は、ホットケーキが大好きなのね』
『フィッシュアンドホットケーキさ。』

詩織は、なんだが甘いものが食べたくなってきた。
ウエイターさんを呼ぼうと思ったが、大悟の空想が留まることを知らないので、なかなかタイミングをつかめないでいた。


『それで、二人はどうやって赤レンガ前までたどり着いたの?』
詩織は、氷が溶けて薄くなったアイスカフェラテを飲みながら質問した。


『バオバブ君はどんどん足が速くなって、いろんな競技会で優勝するようになった。そのうち、日本遠征の話が持ち上がった。去年のことさ。』
『マータイちゃんの方は?』


『ホットケーキミックスの材料を探していて、日本の帝国ホテルのホットケーキが美味しいという噂を聞きつけたんだ。これも去年のこと。』
『だいぶ巻いたわね』

『急展開だったんだ。そして、バオバブ君が、両親の実家がある横浜に宿泊して、昨日からみなとみらい公園をジョギングし始めた。』
『それで彼は上下ジャージ姿なのね』


『一方、マータイちゃんは、帝国ホテル東京でホットケーキを食べたんだけど、イマイチしっくりこなくて、せっかく日本にきたから美味しいものを食べようと思って横浜エリアに足を向けた。そして、日本で一番高いホテルランドマークに泊ってみた。』
『アフリカにはないものね』


『そして、ちょうどジョギングしていたバオバブ君と、近くのコンビニにおにぎりを買いにでかけたマータイちゃんは、ばったり再会した。』
『15年ぶり?』


『その通り。奴隷船の貨物室ぶりの邂逅。それで、、』
『それで?』

大悟は急に黙った。
10秒ほどだったろうか。
詩織は、次の言葉を待っていた。
すると、大悟は、詩織の顔をチラリと見た。
まるで、長い階段を登っている時に、ついてきているか確認しているかのような仕草だった。

そして、詩織の左手の上から、手のひらを重ねた。
詩織は、その暖かさを感じて、なんだが心地いい気持ちになった。

横浜の海辺の空間に、紺色のカーテンが降りつつあった。
赤い夕陽が、建物の壁をよりいっそう鮮やかに見せていた。

大悟が詩織の顔を見つめた。
詩織は、ゆっくりと目を閉じた。

赤レンガ倉庫前の広場には、駅へと帰路を急ぐ人々の流れが生まれていた。
その人々の中の何組かのカップルが、オープンカフェでくちづけを交わす二人の姿についてのコメントを言い合っていた。

『ちょっと、今見てた?』
『なに?』

『キスしてたわ』
『おぉーいいねぇ。』

『あの二人って、きっと学生だと思うのよね。そして、まだ付き合い始めて二週間ってとこかしら。女の子の方は愛知の高校を卒業して東京の女子大に通い始めてすぐで、、』
『どうしてわかるの?』

『髪、巻いてるじゃない』
『いや、でも巻いてる女の子なんてどこにでもいるよ』

『あれは、名古屋巻きなの』
『鉄火巻き?』

『カリフォルニアロールよ』
『じゃぁ、寿司でも食べに行こうか』