「人が変わったように」という形容詞がある。
よい意味でも、悪い意味でも使われる。
例えば、
「彼女すごく綺麗になったね!恋でもしているのかしら。」
例えば、
「彼はどうしちゃったの?なんというか、覇気がなくなったみたい」
という風に。
あるいは、お金儲けのことばかり口に出していた人が、急にスピリチュアルな世界にはまってしまったり。
素直でフレッシュな雰囲気の若者が、理想と現実のギャップに打ちのめされ、丸くなることであったり。
引っ込み思案でいつもオドオドしたしゃべり方をしていた人が、しばらくみないうちに饒舌・多弁な人になっていたり。
そういう様子を見ると、人は変わることがあるのだなと思う。
反対に、
「人は変わらないものだ」
と感じることもある。
これまた、よい意味でも悪い意味でも。
タバコをやめられない、酒癖が悪い、浪費癖がある。
運動する習慣、部屋をこぎれいに保つ習慣、簡潔にしゃべる習慣。
物事の「欠けている」面に集中する思考パターン。
物事の「ある」面に集中する思考パターン。
笑顔でいるクセ。挨拶するクセ。気配りするクセ。
無表情でいるクセ。誰かが話しかけてくれるのを待つクセ。ぼけーっとただ座ってるクセ。
生き方は自由だなと思う。
これも、結局は選択だろう。
自分を振り返ると、「彼は人が変わった」と言われたことがある。
中高生時代の数少ない友人と、10年以上ぶりに再会した時のことだった。
当時は、自分の中に数多くのコンプレックスがあった。
容姿が気に入らないこと。
スポーツが下手なこと。
読書が好きなこと。
独りでいるのが好きなこと。
声が低すぎること。
周りの子供たちのように、無邪気にはしゃげないこと。
下品なことがどうしても言えないできないこと。
感じている気持ちを打ち明ける勇気がないこと。
一言でいうならば「自分はダメな人間だ」と思いこんでいたことが原因だ。
それで、暗い人だったようだ。
だから、楽しい交友関係を築くことができなかった。
10年以上ぶりに再会した彼らから
「あいかわって、こんなにしゃべるやつだっけ?」
と言われた。
この10年の自己改革のおかげかな、と答えた。
振り返ると、多くの面で自分は変わっていない。
顔や体つきは成長して変化するが、結局、受け入れるしかないことだ。
他人に合わせて下品になる必要なんてないし、自分が好きなように生きればいい。
読書が好きなことはとてもポジティブな習慣だから、やめなくてよかった。
無邪気になれなかったのは、自分を守っていたからだ。自分をさらけ出してしまうことが怖かったから。
自分が感じている気持ちを伝えられなければ、相手が本心を打ち明けることはない。
人生の主導権を他人にゆだねるか。
それとも、人生の主導権を自らとるか。
例えば、剣道は象徴的だ。
もっぱら剣道では相手に先に動いてもらって、それでできた隙を狙って打つ。
つまり、動いてもらう必要があるのだ。
だが、動いてもらうには、相手が動かざるを得ないように誘導せねばならない。
その過程を「攻め」と言う。
はたから見ていると「後手に回っている」ように見えるが、対峙している両人からすれば「攻め」で勝っている側に主導権があるわけだ。
「変わりたい」と思うなら、自分の人生の主導権を握る必要がある。
さもなければ、他人に左右され続ける人生が続くことになる。
それもまた運命なのかもしれないから、間違いとか正しいということはない。
具体的に、主導権を握るとは何をすることなのか。
それは、心、考え方、身体をコントロールすることだ。
どのような心の在り方でいるのが自分らしいのか。
どんな考え方をするのが自分らしいのか。
どのような身体が自分にふさわしいのか。
その結果として現れるのが「声」だ。
だから、声を聴くと様々なことがわかるようになった。
声を磨くプロセスとは、上記の三つを同時にコントロールすることでもある。
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