こんばんは!
声の芸術家、相川陽介です。


パソコンの中を整理していて、昔かいた文章を見つけました。


声の芸術家になってから一年半のあいだの記録です。


努力ってどのくらいすればいい?

という問いに対する、自分なりの答えの様な。

霊能者の釘宮弥生氏もいってました。
大抵の人は、努力が全然足りてないって。

僕もそう思います。

といっても、自分も、これからさらにがんばっていきますけどね!!


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声の芸術家になってから。

あの日から
ありのままに、感じたことを伝えるだけだ。

ぽろぽろと涙を流した僕。

そのときの自分は、僕だった。

それは、合宿の時間だった。
自分の声の芸術家としての役割が見つかってから、行動したくてたまらなかった。
合宿の最中、もどかしくしていた。

代々木のオフィスに戻り、興奮状態でメールを書いたんだ。

そして、その日はすぐ寝た。
次の日メールを見た。

「あいちゃん、がんばって」
「直接は何もできないかもしれないけど、応援しています」

そんなメールが何通もきていた。

うれしかった。

同僚の友人にその話をしたら、驚いていた。

それから、その会社のボスに、面談しにいった。
辞意を伝えるためだ。

ボスは、こういった。
「朗読っていう切り口はおもしろいね。もう一歩、ビジネスになるようなものが必要だね。」

その言葉、その後、思い知ることになる。
そのときは、あまり気に留めなかった。


朗読の力を確実なものにするために、世界一と称されるヴォイストレーナーや、元NHK看板アナウンサーで朗読歴50年以上の方や、日テレ俳優養成所などに通い、日々技術を磨き始めた。
楽しかった。



はじめのライブが決まった。
場所は、千代田区のカフェ可否堂。
10名ほどの方が集まった。
構成を練りこんで望んだ。

自分なりに、全力を尽くした。
お花のプレゼントが届いた。
それが本当にうれしかった。


そのライブがスタートする4時間前、初めて老人ホームで朗読をした。
結果はぼろぼろだった。

叫びだす老人。
動き回る老人。
話をまったく聞いていない様子の老人。
ショックだった。

あせって、やたら大きな声で読む。
それに驚いておびえる老人。

そこにいた、ボランティアおばさんに言われた。
「桃太郎とか、そういう誰でも知ってるの読めば?」

くやしかった。
おれは、そういう作品を、誰でも読んでいるから、あえて避けていた。
くやしかった。


その後、ある人の講演会の大舞台で、詩の朗読をする機会に恵まれた。
うれしかった。一生懸命朗読の練習をした。


そして、二回目の自主開催朗読会、月を愛でる会。
朗読に、歌に、演技に、交流ゲームに、さまざまな要素を盛り込んだ朗読会だった。

15人くらいきてくれた。

はるばる川口からきてくれる人がいた。
感謝した。

準備がすごく大変だった。
特に、荷物の運搬。

当時、ミニチャリに乗っていた僕。
家のCDコンポと、衣装、そして食事類、ござ、衣装など、全部つんだ。
タクシー代がでなかったからだ。

必死でバランスをとりながら、こいだ。


結果、とても楽しい会になった。


そして、不思議な朗読会~中世欧州編~。
10月だった。

そのころには、運転資金が尽きていた。
なぜなら、毎日、老人ホームで朗読に明け暮れる日々だったからだ。
一切、他の仕事を受け付けなかった。

かといって、朗読をしていない時間、何をしていたか。
ほとんど、家で寝たり、ごろごろしたりしていた。

そんなんじゃ、だめに決まっている。



それでも、がんばれば、きっと道は開けるとがんばった。

その朗読会では、朗読の世界で有名な女性とコラボレーションした。
彼女は、某高級車メーカーや、各種大企業のナレーションなどを勤める、一流の方。

そんな人と、声の芸術家としてスタートから半年もたたない僕がコラボレーションした。
常識では考えられない奇跡だった。

お誘いしたら、二つ返事で
「あら、いいわよ」
と!

うれしかった。
のりのりだった。


周りからも驚かれた。
「あの人とコラボレーションするってことは、あいちゃんもその地位にあるってことだよ!」
なんておだてられて、うれしかった。


ライブのために、朗読原稿の準備をがんばった。
数時間の作品を、わずか四十分にまとめた。

準備にかかった。
しかし、そのころ、本当にお金が尽きていた。
食費が払えない。
家賃が払えない。
しょうがなく、実家にお金の無心をしたりした。



2006年10月は、一年前から決め
ていた、沖縄旅行にいった。

そのために、家賃に支払うべきおかねを航空券に使った。
現地にいっても、宿泊費がなかった。
海辺にテントを張って、泊まった。
幸い人はいなかったから、浜辺ですごくロマンティックな時間をすごせた。

あるキャンプ施設で、朗読をやった。
反応はダメダメだった。

未熟だった。


でも、旅の終始、お金がないことの恐怖心が、離れることはなかった。



2006年10月後半、朗読会当日。

集客で、その彼女に大見得をきってしまった。
ひくにひけない状況になった。
「50人は集めますよ!」

必死になった。
電話したり、メールしたり。
もう、これ以上できないというくらいやった。
すごくきつかった。

そして、当日。
結局、目標の人数を集めることはできなかった。
そのことをいうとき、本当に恐縮だった。
伝えたら、軽蔑されるんじゃないか。
「えぇっ?それだけなの?」

案の定いわれた。
自分の実力を思い知った。


その会は、厳しいフィードバックが多かった。
「実力が足りない」
「彼女と明らかに見劣りしました」
「がんばってください」

そんなのが多かった。
「すごくよかった!応援しています」
そういうのもあったのが救いだった。

出演者や協力者に、報酬を支払った。
結果、数十万円ほどの借金が残った。
自分の手取りは、ゼロだった。


そこから、本当に厳しい日々が続いた。


どうしても、アルバイトがしたくなくて、自宅を引き払おうかとも考えた。
友人にとめられて、断念した。

結局、アルバイトをすることになった。
ともあれ、借金を返して、生活を立て直さなければならなかった。

冬の寒い朝、サンドウィッチつくりのアルバイトを始めた。

朝六時半始業。

高校時代以上だった。
学生からぼろくそいわれた。
バイトのおばさんから、あごで使われた。

その人たちと時間を過ごすのがどうしてもいやになって、耐えられなくなったことがあった。
ネガティブな言葉をいつしかはくようになった。
幸い、そのいやな人たちは、辞めたり、僕と違う時間のシフトに入るようになった。


バイト扱い、何度もくやしい思いをした。



平日は、毎朝その仕事。

午前11時ころにその仕事を終え、そのまま老人ホームにいき朗読した。
午後も別の場所で朗読し、夕方から深夜までコールセンターで働いた。

帰宅するのは夜の11時ころになった。

それから、ブログを書いたり、メールを書いたり、家事をしてねた。

ひどいときは、早朝からアルバイト、日中はクレジットカードの勧誘、夕方からはコールセンターと、一日中都内を転々としてはたらいた。生きるために、必死だった。

また、時間をあけないように、休まないように、金を生み出すために、学生の頃にやっていたチラシ配りのバイトなんかもした。


池袋東口の街頭にたった。
蒲田駅の街頭にもたった。
自由が丘の街頭にもたった。
渋谷の街頭にもたった。

コンタクトレンズのチラシだった。

「いらっしゃいませーただいま、コンタクトレンズが大変お求め安くなっております」

ヴォイストレーニングだと思って、ひたすら声を出した。
寒かった。
コートを着込んで配るのだが、体の心から冷えた。

「夢をかなえるためだ」

その想い以外は、本当になにもなかった。

クレジットカードの勧誘でも、声を張った。
滑舌の訓練だと思って、一生懸命声をだした。
かなり、成果をあげることができた。


でも、朗読から得られる収入は、ゼロのままだった。
それでも、忙しい合間を縫って、朗読をしにいった。


借金を完済すべく、
「10分の1投資法」
を使った。

収入の10分の1を、自分のために確保する。
そして、10分の2を返済にまわすという手法だった。


それで、なんとか、返済のめどが立ち、10数万程度のたくわえができた。


その時、どんな気持ちで日々生活していたか。

ちょっとした食べ物が、すごく感動的だったりした。
ある日、新宿にアルバイトでいった帰りに、すごく甘いものが飲みたくなった。
でも、無駄に使うお金なんかちっともなかった。

でも、甘いものが飲みたかった。
新宿西口から、都庁に通じる通路に、コンビニがった。
我慢できず、入って、カフェラテを買った。


飲んだ。
おいしかった。
すると、涙が自然とこぼれてきた。
歩きながらでも、涙が止まらなかった。





「どうして僕は、こんなにがんばってるのに、むくわれないんだろう」






無駄なことだとわかっていたが、
考えなければいいことだとわかっていたが、
考えたら、すべてが終わってしまうことだったが、
そう思った。


朝から晩まで、毎日毎日毎日ハードに働く日々が、結局1年続いた。

「自分の仕事じゃない」

と心の奥で感じながらも、ポジティブに、笑顔で仕事ができるようにがんばった。


2006年12月。
たまたま、企業主催の研修で朗読を使ってくださる方が現れた。
その人に、大目玉をくらった。

いつものように、早朝からアルバイトをし、いったん帰宅。
体がどうしようもなく、睡眠を求めていた。
一旦家に戻り、時計をみて、あわてて目覚めた。

その企業との打ち合わせの時間直前だった。
走って駅までいって、その会社までいった。

怒られた。


もう、ずたずたな気持ちだった。



2007年3月。
とうとう、老人ホームでの朗読をやめた。

単純に、
「ボランティア扱いされ続けることに我慢ならない」
と感じた。


不満だった。


4月から、ようやく、ギャラをもらって朗読をすることができるようになった。
大きな進歩だった。


一生懸命稽古をした。


2007年5月。
ある経営者の方にいわれた。
「全然本気で生きてないやろ。ばればれやで」
と。


自分は、一生懸命がんばっているつもりだった。
ショックだった。

なんのために、自分が朗読をするのか?
全然わからなかった。

それでも、はじめにたてた目標
「2000時間トレーニング」
を達成したかった。


老人ホームでの朗読はやめたが、機会をみつけたり、いろいろな場所で朗読を続けた。



2007年7月。
あるセミナーを受講しているときに、参加者の数名にこういわれた。

「あいちゃん、どうすればあいちゃんみたいにいい声になれるの?」

ヴォイストレーナーとしての新たな一面が生まれた。
自分がヴォイストレーナーなんて、一度も考えたことはなかった。


全然相場がわからなかったから、値段をつけてもらった。
一時間5000円。
すごくうれしかった。単純に。自分の仕事でお金がもらえることを、うれしいと思った。


2007年8月、初めて、ヴォイストレーニングのグループセッションを主催してもらった。会場キャパぎりぎりの参加者が集まってくれた。
20代から60代まで。
様々な職種。バックグラウンド。

自分の新たな可能性が開けた気がした。



2007年10月、沖縄の渡嘉敷島に4泊5日でバカンスにいった。
夏から秋まで働き詰めで、一度、気分を入れ替えたかったからだ。


そのときは、ようやく、金銭的な不安はなくなっていた。
アルバイト収入、そしてヴォイストレーニング、朗読の収入で、生活に困ることはなくなった。

ブルーの海。
青い空。
美しいさざなみ。
七色の自然。
新鮮でおいしい空気。
たくさんの食事。

静かで、心豊かな環境。

最高の思い出だった。


金がない恐怖に追われた、一年前の沖縄と大違いだった。

お金は充分にあった。
アルバイトで得たものといえど。


その渡嘉敷島で、島にきている人が集まる場があった。
おもしろそうだったので、いった。

自己紹介した。
そしたら、朗読やることになった。
ヴォイストレーニングやることになった。

やった。

楽しかった。
自分は、本当に好きなことを仕事にしているんだなと感じた。



2007年11月、初めての企業主催のヴォイストレーニングセッション。
一回の告知だけで、会場の定員オーバーの参加者が集まった。
波がきた感じだった。
結果、大盛況だった。

大盛り上がりというのはこういうことか、と思った。

終了後、僕の前に名刺交換の列ができた。
個人セッションの申込者が、参加者の実に半分。

出来すぎだった。


2007年秋以降は、同時に、日テレの事務所に所属していたので、役者としての仕事も入ってきていた。
誰でもいいような役しかこなかった。
テレビCMとか、企業VTRとか。
とてもそんな仕事に、価値を見出せなかった。
発展なんて感じられなかった。

役者やってる人らから、気持ち悪い感覚を覚えた。

ある撮影現場。
10年以上役者をやってる男性がいた。
演技はうまかった。細部まで気が張られている。

すごい違和感を感じたのは、その笑顔。
100%、本心でない笑顔。
普段、人と話してるときの。

そして、データベース集めのために、アドレスを聞く姿勢。
きっと、舞台のチケットノルマのためなのだろう。


僕は、それがすごく気持ち悪かった。


事務所の先輩とも現場にいった。
聞いたら、3年やってるとのこと。
一緒にエキストラやった。

「3年やって、まだそんな役しかできないのか」

と、正直感じてしまった。

ここにいても、自分の成長はない。
そう感じた。

だが、何か、そこで得られるものがあるきがして、とどまっていた。
ヴォーカルレッスン、ダンスレッスンなんかも受けた。




そして、2008年、1月現在。
今回のライブのために、自分の過去と徹底的に向き合った。
何度も問われた。

「僕が舞台にたって朗読をする意味は何か?」


その答えは、声の芸術家になって、ちょうど一年後。
確か、2007年の8月頃だった。

僕はあるセミナーにでていた。
「自分の価値を10倍にする」
その言葉にひかれた。

そのセミナーで、朗読をする機会が巡ってきた。
作品は、「大きな木」
与えることを書いた絵本。

何回も読んだ本だった。
それなりに読んだ。ただ、それなりだった。


そのセミナーの終盤。
自分の心のよりどころを書くワークがあった。
「マインドホーム」
と呼んでいる。


早速、おてのものだとばかりに書いた。
それを朗読した。
自然や愛の美しさや、脚色にあふれてた。
全然しっくりこなかった。全然、うそばっかりだった。


あらためて書こうとしたが、かけなかった。
だめだった。

すると、セミナー中ずっと関わってきた女性が、こういった。
「あいちゃんの朗読で、みんな感動してるんだよ」


「僕の声が・・・・感動を?」


涙があふれてきた。
うれしかった。
そんな風にいってもらったことがあったと思う。でも、それは、なんか違った。

自分の声が、感動を生み出したなんて、何がなんだかわからない。


でも、そういってくれた。

うれしかった。


でてきた、言葉たち。一瞬だった。
「僕には、できることがある。
くやしいことがあったり、つらいことがあっても、
僕にはできることがある。
僕には夢がある。
僕には夢がある。
僕の声が、感動の涙を流させる。
僕の声が、情熱を生み出す。
僕にはできることがある。」



その言葉だった。







おれが舞台に立つ意味ってなんだ?
こんな、めためたな自分が、なんで舞台に立つんだ?
なんでおれは声の芸術家なんだ?


「あいちゃんの声で、感動してるのよ」


それなんだ。
うれしいんだ。
求めていたんだ。


認められたくて認められたくて。
自分じゃなくても、楽しそうにうまくやろうとしてきた。

「あいちゃんの声で感動した」


そう言ってくれる人がいるから、おれは頑張ってる。
そういってくれる人のために、おれは頑張ってる。
そういってくれる人のお陰で、おれは今日まで続けてる。

そうか。理由がわかった。

あいちゃんはすばらしい、あいちゃんの朗読は本当にすばらしい。

そういってくれる人がいるから、おれは続ける。


苦しいことばっかり、つらいことばっかりだ。
それでも続ける。


そう思った。




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