以前から書いている、
『なぜ、声の芸術家という仕事をはじめたのか』
について、そろそろ続編を書こうと思います。
前回までの、
『なぜ声の芸術家という仕事をはじめたのか?』
http://ameblo.jp/voice-artist/entry-10570427441.html
今、夜の12時を回ったところです。
書き終わったいま、二時をまわりそうです。
前回は、2010年の1月頃に、確か、書きました。
あれから一年ちょっと経ったようです。
わずか一年で、僕は地球を二周したくらい、移動しました。
振り返って書いていきます。
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声の芸術家は、ヴォイスアーティストであり、リーダーズヴォイストレーナーである。
芸術家としては、ヴォイスシネマという声の表現形態をとって、感動、勇気、癒しを伝えていくこと。
トレーナーとしては、その人本来の役割を、存分に発揮できるように手助けすること。
その想いが明確になってから。
自分にとっての揺るがない『北極星』が定まった。
しかし、だからといって、仕事がより充実したというわけではなかった。
そんななか、2010年3月に、僕は結婚をした。
様々なことがあって、かなり深く、自分の内面と向き合った結果、彼女をより幸せにしたいという気持ちがわかったので、結婚することにした。
これは、かなり考えた。
なぜ、結婚をするのか?
自分のため?
さみしさを埋めるため?
打算?
いいかっこうをしたいから?
依存させたい?
そんな理由だったら、うまくいかなかくなることは目に見えていた。
過去の失敗パターンから、それがわかった。
本当はどう思っているのか?
それについて深く考えた。
結果、彼女の望みを叶えてあげたい、という気持ちが、自分のなかにあった。
雪が降りしきる箱根神社で、神前結婚式を行った。
彼女のうれしい顔がみれてよかった。
その後、前年からすすめていて中々結果のでなかった、ある法人向けサービスが、だんだんと結果になってきた。
熱意をもって、地道に営業を続けた結果だった。
これは、大きな自信になった。
しかし、会社としては、鳴かず飛ばずの状況が続いていた。
2010年、7月。
事件が起こった。
ある日、ソラオトの取締役から着信がはいった。
ちょうど地下鉄にのっていたので、でれなかった。
折り返した。
興奮した様子で、こんなことをいっていた。
押切もえが、取材にきたい、と。
六本木の日比谷線のホームだった。
ちょうど電車が発車するタイミングだった。
驚きの声をあげたが、電車にかき消された。
そして、7月の半ば。
ある雑誌の企画で、押切もえ氏が本当にやってきた。
ショックだった。
いつものスタジオに、本人登場。
とはいえ、平常心を、必死になって装う自分がいた。
いつもの体験レッスンの内容を行った。
レッスンを進めるうちに、彼女も、他の生徒さんと変わらず、声についての悩みがあるということがわかった。
すると、だんだん、うわついていた気持ちが変わった。
ヴォイストレーナーモードになった。
最後に、彼女の望んでいることをより実現するために、このようなトレーニングをするといいという話をした。
率直で、厳しめの話だった。
そして、レッスンは終わった。
その後、1週間後だった。
その夜は、目黒で、友人が開催しているワイン会に出席していた。
携帯がなった。
誰だろう?
電話にでた。
押切もえ氏だったので、びっくりして、思わず携帯を落としそうになった。
翌々日に、レッスンをした。
そこから、毎月レッスンをすることになった。
びっくりした。
8月、押切もえ氏のインタビューと推薦がのった記事がリリースされた。
都内に20万部。
カラーで半ページ。
しかも、前半、後半と、二周連続。
広告価値に換算すると、少なくとも200万円以上の価値はあるだろう。
ホームページとブログのアクセスがうなぎのぼりだった。
記事を読んだという、疎遠になっていた友人から連絡があった。
家族が喜んだ。
記事には、読者プレゼントがあって、3名にプレゼントのところ、214名の応募があった。
それから、ヴォイストレーニングの個人レッスンが大幅に増えた。
一日10レッスンの日が数日続いたりした。
これはチャンスだと思ったので、レッスンは減らさず、 価格を10500円にして続けた。2500円アップだった。
体はしんどかったが、若いのでがんばれた。
それから、妻と引越しをした。
広尾の閑静なマンションを見つけた。
緑の美しい庭があり、理想的な環境で、うれしかった。
その頃、また、松田一完氏とよく会うようになった。
そして、12月に大きなホールを借りて、なにかやることになった。
これは、本当に悩んだ。
本当は、なにを伝えたいのか?
どんなスタイルが一番やりたいのか?
企画がまとまって、その後、ゼロから考え直すことがあった。
この時には、ハードすぎて泣けた。
中途半端な答えは許されなかった。
とてもハードな日が続いた。
毎週打ち合わせが10時間程度の時があった。
その上、レッスンが10レッスン。
おまけに、新しく企画したグループレッスン。
11月の末に、倒れた。
家についたとたん、そのまま意識を失った。
翌朝、気がついたらリビングだった。
そのままレッスンに向かった。
その夜、このままでは死ぬ、と思った。
このレッスンの仕方では、もう長くできない。
そう思ったが、すぐには減らせない。
そして、12月の大きな公演もある。
逃げない。
しかし、きつい。
深夜に及ぶミーティングをのりこえた。
そして、公演の1週間ほど前だった。
渋谷セルリアンタワーの能楽堂の開催される、一中節の演奏会にいくことになった。
一中節というのは、江戸時代から続く、浄瑠璃の一派である。
演奏を聞いた。
感動した。
日本の文化の持つ、深い精神性。
その表現に心打たれた。
その時わかった。
僕は、日本人の相川陽介だからこそできる、声の表現をしていきたい。
日本、というものが、心の多くを占めるようになった。
そして、公演当日を迎えた。
ライブ花鳥風月。
関係者の並々ならぬ協力と、よい雰囲気のお客さんのおかげで、納得のいくステージを創ることができた。
死ぬほど深めた上に開催したステージだったので、成功だった。
くしくも、2009年4月にオペラ座の怪人を上演したホールだった。
そして、2011年。
年が明けた。
1月3日から、イタリアに旅立った。
声の武者修行のためである。
10日間の日程になった。
初日にローマで財布をすられた。
もう嫌になって帰りたくなったが、妻の応援で踏みとどまった。
翌日、ボローニャに向かった。
世界に名だたるパフォーマーを育てているヴォイストレーナーに出会いたい。
そのためのイタリア行きだった。
しかし、なかなかヴォイストレーナーと出会えない。
日本にいる間にアポイントをとりたかったので努力したが、できなかった。
寒風吹きすさぶ、石畳のボローニャの街を、毎日歩き回った。
6日目だった。
ある博物館の職員と話していたら、その彼が、ボローニャで一番のヴォイストレーナーを知っているという。
クリスティーナ・ザバロニ、という名前だという。
紹介を頼んだら、ホームページから直接メールをしてみろとのこと。
彼に感謝して、ホテルに戻った。
早速、情熱をこめてメールした。
翌日、返事があった。
あってくれることになった。
うれしかった。
その翌日、クリスティーナに会いにいった。
ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場や、ミラノ・スカラ座など、世界中の主要な歌劇場で歌っている、正真正銘の一流歌手だった。
曰く、メールに、日本の伝統的なヴォイスパフォーマンスをしています、と書いてあったことに心惹かれたという。
日本通だった。
事実、彼女のうちには、ふすまがあった。
ティーポットの代わりに、急須があった。
英語も通じて安心した。
彼女の前で歌った。
正直、世界レベルの人の前で、自分の声がどんな評価をされるのか怖かった。
しかし、誰にでも最初の一歩はある。
思い切ってイタリア語の歌を歌った。
評価してくれた。
美しい声を持っていると言われた。
問題点も指摘されたが、評価されたことがうれしかった。
情熱も評価された。
これは大きな自信になった。
そして、クリスティーナのヴォイストレーナーである、ミケランジェロ・クルティ氏を紹介してくれた。
このすごい歌手を育てたトレーナーというと、まさに自分の求めていたヴォイストレーナーだ、と思った。
翌日、そのクリスティーナのことを教えてくれた博物館の職員の男性にお礼にいった。
すると、驚かれた。
まさか、会えるとは思っていなかった、とのことだった。
よかったら、僕にも紹介してくれ、と頼まれた。
イタリア人のいいかげんさを、深く思い知った。
多くの収穫を得て帰国した。
帰国早々に、イタリアで学んだことをシェアするセミナーを開催した。
20,000円のセミナーに、5人が集まった。
帰国後、仕事のしかたを変えなければならないと思い、実行していた。
自分が心地よく余裕をもって仕事ができ、かつ、世の中に充分に価値をだせるようなバランスを探した。
前年の秋からスタートしていたグループレッスンがうまくいっていなかった。
他人に任せていた。
思う様にならなかった。
気苦労ばかりが重なり、努力しても赤字がでていた。
人と仕事するようになって、複雑になっていった。
人間関係が、いくつか壊れた。
これは、危険なシグナルだと思った。
売上も落ちた。
2011年2月4日、転機があった。
複雑になったソラオトの業務について、友人に相談していた。
すると、本当はなにをしたいの?と聞かれた。
本当にやっていきたいことは、声のことの追求だった。
起業家として成功したいのか?と聞かれた。
違った。
ビジネスを創ることが目的ではなかった。
相川流の声道を確率すること、が目的だった。
そして、もっとシンプルに仕事をしよう、と思った。
グループレッスンを、全て、自分が担当することにした。
ヴォイスアカデミアが誕生した。
価格をあげた。
個人レッスンを3万円にし、数をぐっと減らした。
体験レッスンでは、自分の想いを伝えることを、しっかりやることにした。
結果、成約率が100パーセントの回が頻発するようになった。
手応えがあった。
すぐに2クラスができた。
そして、3月8日に再びイタリア・ボローニャへいった。
今度は、ミケランジェロ・クルティ氏とマンツーマン、厳しい声修行の日々だった。
そんなある日、事件が起こった。
日本で地震が起こった。
ボローニャのホテルのラジオで知った。
びっくりして、日本に電話をかけた。
みな無事だった。
家族が心配してメールをくれていた。
何かにスイッチがはいった。
それまでは、誰かに会ったり、何かをする時に、ちょっとしたためらいがあった。
そのためらいや躊躇が、消え失せた。
思ったら、本当に、すぐやることにした。
電話、メール、人と会う。
怖くなくなった。
日本のためなら、そんな恐れ、なんでもなかった。
その日から、チャリティライブを開催しはじめた。
ボローニャの中心にある広場で、日本の歌を歌った。
野外で歌った経験がなかったので、怖かったが、日本のためならなんだってできた。
他にも、ライブハウスでも歌った。
雑貨屋で物干し竿、クリップ、白いテーブルクロスを買った。
手作りで、のぼりを作った。
のぼりには、日本の地震への募金、とイタリア語で書いた。
7回歌った。
合計500人くらいのイタリア人に聞いてもらった。
わずかな金額だが、募金が集まった。
帰国した。
東京は暗かった。
しかし、うれしいことに、ヴォイスアカデミアの受講生は、そんな震災の災禍にも関わらず、一人も欠けることなくレッスンに通ってくれた。
志しでつながった人とのご縁を、とてもうれしく思った。
それから、福岡、大阪、名古屋、札幌でもヴォイスアカデミアを開催することにした。
かねてから、いつかやりたいと思っていたことだった。
地方の第一は福岡からだった。
地元であることが大きかった。
それぞれのクラスに、花の名前をつけた。
宝塚のように感じた。
地方で開催することになり、月の半分を地方で過ごすことになった。
妻との時間をより大切にしなくてはと思った。
イタリア行きのことや、地方への交通費が主因で、資本金が底をついた。
お金の蓄えがなくなったことで、キャッシュアウトへの恐怖感が生まれた。
しかし、やるべきことをやっている自負があるおかげで、恐怖に打ち勝つことができた。
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