中世の歴史から消え去っている大阪市内ですが、よくさがせば少しは痕跡が見つかります。
 
 中央区の石山本願寺跡(今の大阪城辺り)、阿倍野区松虫通の聖天山付近の吉田兼好の隠棲庵跡、同じく阿倍野区王子町の伝北畠顕家の墓所や住吉区墨江の後村上天皇の行宮所跡など。

 伝や跡ばかりですね。
 
 ちなみに、大阪市内に実際に残っている中世の建造物としては四天王寺西門の石の鳥居があります。鎌倉時代のものです。
 
 ここも伝ですが。

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 鎌倉時代初期の歌人で古典や歴史の教科書でおなじみの「新古今和歌集」の編者の一人である藤原家隆の塚が、 地下鉄「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅歩いてすぐの谷町筋を西に入った路地の突き当りにあります。
 
 この様な塚は、少なくとも、江戸時代にはあったことははっきりしています。幕末の紀州藩重臣で勤王の志士の伊達宗広(下関条約で有名な陸奥宗光の父親)が、家隆を慕ってこの辺りに庵を作り、「夕日岡」と名付け(夕陽丘の謂れ)、伊達家と陸奥家の墓所と決めたそうです。
 昭和28年に鎌倉に移されるまで、実際に宗広や宗光一族の墓があったそうです。

 織田作之助の「木の都」という作品にも {藤原家隆卿であろうか「ちぎりあれば難波の里にやどり来て波の入日ををがみつるかな」とこの高台で歌った頃には、もう夕陽丘の名は約束されていたかと思われる。}(原文のまま)と書かれています。