ネット社会は非常に怖いものであるな、とひしひしと思わせてくれる作品であったが、やはり、それは映画の世界であって恐怖感を煽ってはいるが、本質的な変容ほ齎せれなかった。のはなぜかというと、もはや自己の中でネット世界は完結していて今更どうこう思わない。のは、つまり、私はTwitterをやらない。あまりテレビを見ないからかも知れないと冷静に考えて思考、疑わしいものはネットやらマスコミやらの人間たちでそれはきっと情報がネットにのる時点で保存されている訳で止まっている情報というものはやはり疑わしい。それは聖書にしたってそうで、ニケーア会議で編纂された時などはやはり権力に都合がいいようにある程度操作されていたものと思われる。でも、その時にはその時の価値観があってそれに則って作成されている訳で、つまり、保存された情報はその時の文化や人を映し出すのだろう。まぁそこでこれは歴史の勉強であって、それを真に思うか思わないかを判断すればいい。が、宗教に嵌ってしまった人はそこから動けなくなってしまう。それがすべてになってしまう。
その点、仏教というものは素晴らしくて、こだわるなと説いていてこだわることは時間が止まってしまうわけでフロウが淀んでしまう。だが、闊達に自由を求め過ぎれば人はあらぬ方向へいってしまう。やはり、人は止まったり動いたりして停滞と流動を繰り返すものなのだろうと思う。
 停滞している時はその世界が全てであるから、それはそれで楽だし、考える時間が減少する。だが、きっと意識に錆が生えてきていたたまれなくなり、動き初めて次の停滞先へと碇を下ろす。つまり、航海のようなものかもしれない。港がたくさんありそこを人間の意識が行ったり来たりしているのだと思う。
 碇を下ろすこと(下ろしていること)、海を出て次の港を探すこと(探していること)、それを意識化で行えたならなんと楽しきことなのだろうと少し哲学的なことを思考してみたりする。
 いま、私はここに停滞している。