朝議を終えられ康安殿(カンアンデン)に戻られた王様に、茶をお出しして、ひと息ついていただいたところ。



女官や他の内官達を下がらせて、私、アン・ドチと、迂達赤(ウダルチ)副隊長のみを留め置かれ、王様がおっしゃった事は——



「王妃の具合が快くなりまこと有り難い。興王寺(フンワンサ)での祈祷と、民達の祈りが天に届いたに違いない。その礼に尽くす為、そして、無事に出産を終えられるよう願う為にも、余は興王寺へ参ろうと思うのだ」



遅かれ早かれそう言われるのでは、と思っていた。


良い頃合いかもしれない。

王様も王妃様も信心深い御方だ。近頃の憔悴された御心も、きっと休まるだろう……



そう思い、私は王様のお言葉に低頭しながらお返しした。



「王様自らお出ましとは、さぞご利益がある事でしょう。さっそく日取りを、都評議使司(トピョンウィササ)へ諮らせてはいかがでしょう」

「いや、それでは遅い」

「は?遅いとは……」



行幸となれば、日取りから何から、きちんと計画を立ててしかるべきを、王様の次のお言葉に、私と副隊長は驚愕する事になる。



「大掛かりな行幸ではなく、今宵密かに参る故……ドチャ、副隊長。2人は供をせよ」


「はっ?今夜でございますか??」

「えっ、お忍びで?!」


「静かにせよ、みなに聞こえるであろう」



思わず副隊長と顔を見合わせるも、血の気の引いた顔で、副隊長の口は言葉を失って閉じられずにいる。



私も同じく……それでも何とか、主君をお止めしなければ、と震える口で諫言を——



「急過ぎます。その上お忍びなどと…なりません、王様。しっかりとした準備も護衛も必要です。お気持ちは分かりますが、それならまず、チェ大護軍をお召しになっては、」

「……チェ•ヨンには、行くなと反対されておる。故に、あの者には伏せておくのだ」


「「えっ!!?」」



今度こそ、副隊長と揃って声を上げてしまった。



「しかし、王様、」

「其方ら2人に護れとは言わぬ。キム•ヨンが護衛につく故、心配するな。ともかく今夜だ。頼んだぞ」


「「………」」



言い置いて、王様は奥の間へ引っ込んでしまわれた。



こうなると、もはやお気持ちを覆すのは困難……到底無理だ。



ああ、それが出来るとすれば、やはり大護軍だけだろう——




…………………………………………………





「無理ですーーーーー!!!!!」



俺が迂達赤兵舎にチュンソクと居た所へ、トクマンが泣きつく勢いで駆け込んで来た。






「今宵、王様がお忍びで興王寺をお訪ねになると……どうしましょう〜!!」



兵舎2階の隊長部屋へ場を移し、でかい図体を縮め半泣きのトクマンが、洗いざらい吐く。



「俺は当然、お供に呼ばれました。ただ、王様が、大護軍には伏せておけ、とおっしゃってぇ……」



近頃都の治安が良くない事。特に、興王寺へ人が集まるようになってから…それ故、王様自らお出ましなるのを、反対し続けてきた。


だからといって、俺ではなくキム•ヨンに護衛を……しかもお忍びで、突然今夜とは——



何をお考えなのですか、王様……



俺は、盛大に溜め息を吐いて溢す。



「王様の誤算は、王命を聞かない臣下が、側近くに居るのをご存知ない事だな……」

「だって、黙ってられますか??もちろん俺は、命懸けで王様をお護りしますけど。一緒に行くのが、あのキム上護軍ですよ?上護軍なのに頼りにならない……俺、あの人とはウマが合わないんです。大護軍の事、やたら目の敵にしてるし。嫌いなんですよ、あいつ」



上役への暴言を言いたい放題……本来なら諌めるところだが、全く異議の無い俺は、トクマンの肩を叩いて宥めるに留めた。



チュンソクが眉根を下げて、声を潜める。



「どうしますか?大護軍。王様がお諦めになるとは思えません。このまま捨て置く訳には……」

「いかんだろうな。手裏房と、それから迂達赤と……精鋭を集めて、こちらも内々に動くしかない」

「はい、大護軍」



俺は扉を開けて、階下へ声をかける。



「テマンはいるか」

「イェ、大護軍!」

「ウンスに、今宵は戻れなくなったと伝えてくれ。それから、急で悪いが、そのまま泊まりで家を護ってくれるか」

「わかりました!」



テマンが風のように走り去るのを見送って、俺達は部屋を出た。



「早速に手配りいたします。

……おい、トクマナ。いつまでメソメソしてる。しっかりしろ、副隊長」

「イェ、隊長……」



チュンソクとトクマンの遣り取りを背中に、俺は再び大きな溜め息を吐いた。




と、階下に現れた人物がもう1人……



「——アン内官」

「大護軍……あ、副隊長もここだったか」



眉根を下げ、こちらを見上げるその顔は、疲弊しきっていた。




俺達は、アン内官を交えて、再び隊長部屋で顔を突き合わせた。



「アン内官。以前から王様は、興王寺へ行きたいとおっしゃっていましたし、私もそれが悪いとは思っていません。諸般の事情を鑑みて反対していただけで。それを今夜急に……一体何故そんな事になったのですか?」



俺が当たり前の事を問うのへ、アン内官は、がっくりと項垂れながら答えた。



「私のせいかもしれません……私とキム上護軍が、王様のお耳に余計な事を入れたのです」

「上護軍と?どういう事ですか」


「確か、興王寺に上護軍が密かに通っていた話をしていて……その流れで、願い事をするには新月の晩が良いという話題になり、王様は熱心に聞いておられました」

「新月?……ああ、今宵は新月でしたか……闇夜ですね」



曲者どもにとっては、願ってもない——



俺は眉間に手を遣り、遠慮なく息を吐いた。



「そうなのです……都評議使司を通していては遅い、とおっしゃったので、何故かと伺ってみたところ、今宵が新月だからだ、と」



新月に願いをかけると叶いやすい——そんな迷信を聞いた事はあるが……



「王様も、興王寺に長居するおつもりは無いようなのですが、闇夜に少ない護衛で……それでも、チェ大護軍なら安心出来るのですが、上護軍では心許なくて。それで、王命に逆らっても、大護軍に縋りに来たのです」



アン内官はそう言って、トクマンと目を合わせ、2人は大きく頷く。



「分かりました。王様には…上護軍にも気取られぬよう、こちらで更に警護します。寺の護りも一層注意させましょう」

「お願いいたします、大護軍。私も王様のお側を離れず、お護りしますので」

「はい、俺も!しかと」



アン内官とトクマン、チュンソクと俺は、無言で頷き合い、それぞれ己が持ち場へ戻って行った。


イムジャに話した通り、程なく興王寺(フンワンサ)周りでの店の営業について、“五つ刻(午後9時頃)まで”と御達が出され、夜通し人で溢れる事は無くなった。



寺を警護する兵士の数も平素並みに戻り、まだ落ち着いたとは言えないが、俺も少々息がつけるようになり——




季節は既に初夏を迎え、濃い緑に雨も混じる日が続いている。



我が家の子ども達は三人三様、有り難い事にみな健やかで……それこそ、イムジャが嬉しそうにボヤく程、元気に育っていた。



ある晩、イムジャが溜め息混じりの半笑いで、



「子育てって本当に大変ね。もちろん我が子は可愛いけど、雨で外へ出られないもんだから、一日中家の中で追いかけっこよ……あ〜疲れた……典医寺に出仕してる方が楽だわ。あはは」



イムジャの典医寺への出仕は、5日に一度程。


王妃様の主治医として、母として妻として、忙しい毎日を送っている妻は、本音を隠す事なく明るく笑った。



「貴女も本気で相手になさるから……」

「ヨンと違って私には余裕がないの。ミスなんて、あんよが上手になってきたから、ちょっと目を離すと、家から出てっちゃうんだから。今日もギチョンが、雨に濡れながら必死で捕まえてくれてね……ギチョンももう年だから、気の毒だったわ。風邪ひかないといいけど」

「我が家の高齢化は止められませんからね……」



と、俺と同じ事に思い至ったのだろう…イムジャが、もうすぐよね、と言う。



「ソニの出産までもう少しね。どんな具合かしら?スンオクも元気かしら?ヒジェさんも……」

「便りがないのは元気な証拠といいます。待っていれば、無事に生まれたと連絡が来るでしょう」

「そうね……近くだったら診てあげられるのになぁ」

「ああ見えて、ヒジェはいろいろと心得のある奴です。スンも居りますし、良い産婆も見つかったそうですから、きっと大丈夫です」

「そうよね。良い知らせを待って、こっちも出来る事をしないとね……

そうそう、王妃様がね、少し快方に向かってるの」

「まことですか?それは良かった」

「まだその兆しが見えてきた、って感じなんだけど……うん、ひと山越えたと思うわ」

「貴女もひと安心ですね。それが俺には何よりです」

「ありがとう。それでね、王妃様が興王寺詣での事を心配されて……貴方と同じよ、大勢人が集まるとロクな事がないって…あ、そんな言い方はされてないけど、民達の気持ちは嬉しいけど、皆んなの安全が気掛かりだ、って、おっしゃるの」

「さすがは王妃様ですね」

「それで、王様にやめるよう王命を出して欲しいと、お願いしたそうなの。だから、近々静かになるんじゃないかしら。そしたら、貴方もやっとひと息つけるわね」



良かった良かった、と、微笑むイムジャに、俺も頷き返す。



王妃様の体調が快くなり、都が少しでも落ち着くなら、是非もない。



そして、まもなくその通り王命が出され、寺を囲む民達の姿は、昼も夜も見られなくなった。

(ただ、僧達の読経は、変わらず続けられている)




このまま何事もなく、無事ご出産になればいいが……



モンジュから朝廷異変の報告も、ドンジュや手裏房からの知らせも無い。



王宮ですれ違うキム•ヨンの態度は、やはり陰湿で……別段、変わらない日々が過ぎていった。




……………………………………………




下弦の月が昇る夜。



寝静まった都の中心。


王宮からさほど遠くない両班の屋敷の、薄灯り揺らめく部屋の外に影がひとつ——



そして、その影と屋敷の主人が、密かに言葉を交わしていた。




「——興王寺の夜詣は、ようやく落ち着きましたね。なかなかの賑わいだったとか」

「まさか、あそこまで民草が集まるとは思わなかった。あの方の御見立て通りであったな」

「はい。いよいよ頃合いでございます」

「それなのだが……まことそのように都合よく事が運ぶものか?どうもわしには、」

「たった今、あの方の見立て通りだったと、おっしゃったではありませんか。ご心配には及びません。それとも……臆されましたか?」



一本灯された蝋燭の火が、不意にゆらめく。



紛れ込んできた蛾が一匹、ジジジ……と、火に巻かれ、形無く落ちていく。

 


「……そのようなことはない。わしとて腹を決めておるわ。このままでは、己が行く末も危ういのでな」

「これは失礼を申し上げました。ですが、まことによろしいのですか?現王には、大君(テグン)の頃から仕えておいででしょう?」

「元の人質の頃からな。それだというに、チェ•ヨンのような小賢しい輩を重用し、長く仕えてきたわしを冷遇するなど……そんな主君に、これ以上命を賭けられるか?」

「確かに業腹ですね……」



そう答える影に向かって、男が言う。



「くれぐれも良う伝えてくれ。あの方の一等功臣は……このキム•ヨンだとな」

「お伝えいたしましょう」

「あと7日…月が我らに味方しよう。しかと頼んだぞ」

「——心得ました。では7日後に」



影は音もなく夜の闇に消えた。



残り少なくなった蝋燭の下、手酌で酒を遣る男——キム•ヨンは、注いだ酒が、盃の中で小刻みに揺れているのを見とめた。



それが、盃を持つ…己が手の震えからだという事に、息苦しさが込み上げてくる。



「…ちっ、!」



壁に投げつけた盃が砕け散るのを見、荒い呼吸を繰り返す。



「なんの……見ておれよ、今に……」



キム•ヨンは、まだ震えの残る手で酒瓶を持ち上げると、浴びるように喉の奥へと流し込んだ。


興王寺(フンワンサ)への夜詣。



本殿から聞こえる僧達の読経は、地響きの如く、寺を囲む塀の外まで続いていた。



高い塀の上から覗くように焚かれている、数百本の松明。


その灯りの下、座して頭を垂れ、祈りを捧げる人々。


それを護る大勢の兵士達が、微動だにせず、塀を背に立ってい——



その異様ともいえる光景を直に目にし……俺は大いに溜め息を吐いていた。



天界では、“むーぶめんと”というのだそうだ。



高麗の跡継ぎと国母を守る為、ひいては国の安寧の為に、民が集い祈る——



確かに、この絵面が真にそうであるなら、素晴らしい事だろうが……



興王寺は、都の中心から離れているとはいえ、民の足で歩いて行けない距離ではない。


故に人が集まりやすい。


そこに商機を見出す者も多く、寺の近くには出店が増え、また人が集まるという……都の平穏を請け負う俺達にとっては、全く有り難くない状況なのだ。



娯楽などといってしまっては罰当たりかもしれないが、おそらく民達にとって、門外とはいえ、王室ゆかりの寺に堂々と参る事が出来る……滅多と無い機会には違いない。



それでもやはり、この状況は憂うべきだろう。



王妃様に、早く快くなっていただかなくては……


いや、そもそも不調は懐妊によるものなのだから、無事ご出産が済めば、この騒ぎも収まるか……



しかし、俺が一番憂いているのは、一連の騒ぎを広めた張本人、キム•ヨンの姿が、近頃この場に無い事だ。



奴いわく、秘めていた願掛けであったのに、王様や王妃様に知られてしまった。その上、民達にまで広まり、己れ1人が出張って行くものではなくなった故、と……



ほんの少し前まで、悪名高き奸臣と囁かれていたのが、今や王室を重んじる忠臣などと、市井では噂されているとか……



——胸糞の悪い話だ。








「ねぇ、興王寺の周りに夜店が沢山出てるって聞いたけど、そうなの?」



朝、出仕する俺の着替えの世話を焼きながら、イムジャが若干弾む声で言う。



俺は、わざとらしく溜め息を吐いてみせ、



「そうですね。ですが、駄目ですよ。連れて行きません」

「えーー ……あっ、もちろんよ。別に行きたいとかじゃくて、そう聞いたから。ね、うん」

「……」



忙しく瞬きをして誤魔化す姿は、愛らしくて好ましいが、あのような落ち着かぬ場所に、イムジャを連れて行く事は出来ない。



俺が疑いの目で、無言で見つめ返すのへ、イムジャが更に慌てて、胸の前で両手を左右に振りながら言う。



「い、行きません。行きませんとも。テマンに頼んだりもしないわよ?貴方から散々聞いてるもの。ただでさえ都が騒がしい時に、わざわざ夜の人混みに行くなんて……危ないわ。ねぇ?」

「物分かりの良い妻を持って、俺は幸せです」



わざとらしく頷きながら、俺は、イムジャの形の良い頭を撫でた。



「だけど本当、一晩中賑やかだなんて、物騒な事も起こり易いわよね。お経は仕方ないけど、お店の終了時間を決めたら?オールナイト営業は禁止」

「はい。近々そのように令が出るはずです」






「っぱー、んま〜」

「ちちうえー!ははうえー!」



廊下の奥から、どたどたどた…という、ミスの辿々しい足音と愛らしい声、そして、タムの元気な声が近づいてくる。



俺が出仕する朝のいつもの光景——



イムジャと顔を見合わせ、来た来た…と笑う。



「ふふふ、お迎えよ、アッパ〜」

「はぁー……今日はもう休みましょうか。腹が痛いとでも言って」

「何言ってるの。稼いできてくれなきゃ困るわ。さ、行って来てくださいませ、旦那様」

「行きたくない…」

「もう、ヨンったら」



俺が半分本気で、イムジャを腕に囲っていると——



部屋の扉を、バンバン叩きながら、「っぱー、まー」と、ミスが俺達を呼ぶ声と、


「だめだよぉ、そんなにたたいちゃ」と、よちよち歩きのミスを気遣いながら、後を付いて来たタムの、兄らしく諌める声がして——



俺はようやく妻を抱く腕を緩め、共に微笑んで扉の外へ出る。





「いってらっさいませ、ちちうえ」

「ぱー、っぱー!」

「「「行ってらっしゃいませ、旦那様」」」


「行ってらっしゃい、ヨンァ。早く帰って来てね」



家族達に見送られ、俺は幸いを噛み締めながら、王宮へ向かう。



この幸せを必ず……何があっても守ると、胸に刻んで。



この家に必ず無事に帰ると、誓って。