「其方の娘を側室にと……?王妃がそう言ったのか?」

「はい。先程王妃様からそのように…まことに畏れ多い事で……」

「王妃が……———」



人払いされた康安殿(カンアンデン)。


居るのは王様と左政丞(チャジョンスン)イ・ジェヒョンと俺の3人だ。



アン内官でさえ居ないこの場に、どうして俺が……「居てくれ」と左政丞から請われたのか。


訝しみながらも聞いていると、これがまた…王様の側室に関わる話だった。



しばし言葉を失くされている王様は、どうやら左政丞の娘が…というよりも、王妃様の行動の早さに狼狽えておられるご様子。


そして、左政丞はというと、おそらく予想通りの王様を前にして、気まずそうな表情(かお)をして——



「恐れながら…王妃様は、王様はまだご承知ではないが、内命婦の事ゆえ、最終お決めになるのは王妃様だと、おっしゃっておられました」

「…それで?」

「まずは近々、娘を王宮へお招きくださると……そのつもりで居よ、と」

「はぁーーー……何という……」



王様が眉間を押さえながら、大きな溜め息を吐かれ……それを見た左政丞は、目を伏せて黙り込んでいる。


俺も…いまだ己れがここに居る意味を見出せず……ひと息吐いてから俯いた。


果たして、俺にも聞かせたい、という話が、娘御の事なのか……?………



少しの間を置いて、左政丞が沈黙を破る。



「……王様は、側室を持つ事をお望みではないでしょう。故に、王妃様が何とおっしゃっても、不承知、と。そう仰せになるのがよろしいかと存じます」


そう言って、王様へ深々と頭を下げた。



礼を受けた王様は、左政丞の真意が見えない為か…瞠目されてい——


俺も同様で、不躾にも、目の前の長老を凝視していた。



左政丞が俺と同じ事を言う……


何故だ?

王の側室に己れの娘を、となれば、おおよそ誉れと捉えるのが常だろう。


しかし、どうやらそれを望んでいない様子……むしろ、困っているようにも見える。


もともと欲の無い方だ。高麗の為になる事ならば、進んでするだろうが……自身の権勢を高めるように思われて、固辞したいのだろうか?……



俺はいよいよ痺れを切らした。


「——恐れながら、王様。口を挟んでもよろしいですか?」


王様より許可をいただき、左政丞へ向き直る。



「大監(テガム)。この場に私を留め置かれた理由は何でしょうか?今までのお話は、私などが聞いてよい事とは思えませんが」

「いや、大護軍。其方と…実は、ユ夫人の耳に入れたかったのだ。その……何とか王妃様にと、思うておるゆえ……


王様。臣下として無礼極まりない事を申し上げます。娘を側室にとは、まこと栄誉なお話でございますが、何卒ご辞退申し上げたく——」



腰を折る、という表現がしっくりくるほど、頭を下げる左政丞に、流石の王様も戸惑いを隠せず、「何故だ?」と、問い返される。



「老いてから授かりました娘ゆえ、甘やかして育ててしまいました。とても奥務めが果たせるとは思えません。何より、王妃様はまだお若く、ユ夫人もついております。程なく吉報がもたらされる事と信じております。


王様。小臣、そろそろお役御免を、と思うておりますところ……故に、娘を後宮になど、とんでもない事でございます」



頭を下げたままの忠臣へ、王様は身を乗り出すようにして、


「役目を下りるだと? 左政丞、それはならぬ」

「王様、何卒…」

「高麗はいまだ、元の支配下から抜け出せてはおらぬ。其方にはまだまだ、力になってもらわねばならぬのだ」

「王様……」

「突然の事に其方も驚いたのであろう。側室の件は、余も王妃と話をするつもりだ。故に、其方も早まるな。よいな?」

「……」





——大護軍、送ってやってくれ。


王様からそう命ぜられ、俺は左政丞と共に康安殿を出た。


すれ違う役人や女官達から礼を受けながらも、左政丞の背中は、いつもより丸く小さく見える。


人通りが途切れた頃、俺は忌憚なく思った事を口にした。



「大監。欲が無いにも程がありませんか?」


すると、目の前の御老体が、す、と足を止め、振り返って俺を見た。


俺もその目を見返して、


「私の耳にも入れてくださった故、無礼を承知で伺います。何故、ご側室の話をお断りになるのですか?これ以上の権勢を望まれないとしても、臣下の立場であれば、お世継ぎを、とお考えになるものではありませんか?」


「……その通りだ。故に、わしは不忠者という事になる。案じているのは、王室の安寧ではなく、己が娘の行く末なのだからな」


静かに…それでも俺から目を逸らさず、左政丞は言った。


「遅がけに授かった娘でな。可愛ゆうて、甘やかして育ててしまったのは事実なのだ。とても後宮に入って、この先、他の妃と王様の寵を競えるような娘ではない。

それに、其方だから言うが……側室になって、娘が幸せになれるとは思えんのだ。王様と王妃様は比翼の鳥。そこへ嫁いで、幸せになれるとは到底……

わしは近々隠居する身。後ろ盾にもなってやれぬ。


チェ・ヨン。わしは欲が無いのではない。あり過ぎるのだ。不忠だと言われても、我が子の幸せを…望まぬ親がおろうか」



左政丞は、苦々しげにそう言うと、

それ故、いっそ王様から断っていただきたい、と思うておる、と続けた。

何事かあった……


悲愴感漂うアン内官。訳が分からず落ち着きのないトクマン。

そして、覇気の無い主君の声……


声だけではない。拝した竜顔の…瞳にいつもの力は無く。



昨日はタムにお目見えのお許しを——その上、腕にまで抱いていただいた。


あの時は穏やかに、よく笑っておられたものを。


俺を呼びに来たアン内官の様子……何があったのか尋ねても、「私の口からは…」と頑なで。

王様に直接伺ってくれ、という事なのだろうが……


とりあえず、主君を前に、俺は改めて頭を垂れた。



「如何したのだ、チェ・ヨン」


そう当たり前に問われるも……正面突破しか思いつかない。


「それが……実は私にもさっぱり。何かお困りでしょうか?王様」

「は、ドチに呼ばれたか……余に構わずともよい。忙しい身であろう?」


アン内官の差し金とお見通しの王様は、何やら自嘲されているようにも見え——


果たして己れに何が出来るのか、とも思うが、縋るようなアン内官の顔がチラついて、いよいよ腹を括る。



「……王様。アン内官は誰よりも長く、王様のお側におられる方です。良き時も悪しき時も、どこまでも王様のお気持ちに添われる方だと。そのアン内官に請われました故、そこそこ忙しい身ではありますが参りました」

「何と?」

「何かございましたか、王様。お顔の色が優れません」



俺は、ここにコモが居たら、「これっ、ヨンっ」と諌められそうな物言いをして、竜顔を見つめた。


「私が居てご迷惑なら失礼しますが、そうでなければ、」


「——居てよい。いや、居てくれ……いま少し頭の整理が出来たら、其方を呼ぶつもりであった」

「……」

「ドチめ。先回りが過ぎる奴だ」

「何があったのですか?」

「…まだ余の中で纏めきれておらぬ。だが所詮、纏める事など出来ぬのやもしれぬ。愚痴になるだけやも……」

「構いません。お話ください」


すると、王様は静かに、淋しそうな笑みを浮かべられ、



「臣下ではなく、友として聞いてくれるか。チェ・ヨン……」


いつになく、弱々しくおっしゃった。


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聞けば、昨夜王妃様から、側室を持って世継ぎをもうけて欲しい、と懇願されてしまったと——


成程。それで、このように沈んでおられるのか……



「昨年子が流れてしまってから、よほど思い詰めていたようだ。そこに気づいてやれなかったのは余の落度。だが、だからといって、子を持つ為に、他に妻を娶れと。しかもそれを、唯ひとりの妻から請われたのだ」

「…お察しいたします」

「其方ならどうだ?医仙の他に妻を持てるか?」

「持てませぬ」

「であろう……余もそうだ」



王様のお気持ちは重々……だが、王としてのお立場や、元国との関わりを断とうという時でもあり、あちこちから横槍も入るのだろう。



「昨夜は頭に血が昇り、王妃と言い争ってしまった。それ故、今朝から顔も見ておらぬ。合わせる顔が無くてな。どうするべきなのか……どうしてよいのか。腹が決まらず悩んでおる」


伏せ目がちの王様が、大きな溜め息を吐かれた。



お心の内を聞き、俺も俯いて下唇を噛み締め、逡巡していたが……今己れに言える事を、と意を決し、顔を上げた。



「王様。先程、友として話を聞け、とおっしゃいました。故に恐れながら……友として、私見を申し上げます」


俺は、王様の苦悩を抱いた瞳を見つめ、


「王妃様にお会いください。そして、側室など持たぬ、と。妻は其方ひとりだ、と、おっしゃればいい。

王妃様の不安を、全力で取り除けばよいのです。王様の持てるお力の全てを使って。

この際、体面などどうでもよろしい。困らせようが呆れられようが、どうでもいい……私ならそうします」



言い切った俺を見、王様が、ふ、と小さく吹き出された。


「いかにも其方らしい……其方なら、玉座を下りる事も辞さぬのだろうな」

「そのような畏れ多い事……ですが、妻の為なら、おそらく何でもいたします」

「…そういえば、医仙の為に玉璽を盗んだ事があったな」

「…はい」

「国賊として牢に入り、牢破りもしおったな」

「……はい」



我知らずどんどん俯いていく俺に、王様は、はは、と小さな笑みを溢し…羨ましい、と呟かれた。


「王でなければ…其方のように唯ひとりを愛でていられようが……余はこの国の王だ。それを下りる事は出来ぬし、下りる気もない。故に、世継ぎをもうける事も使命と思うておる。その為に側室を持つ事は、歴代の王をみても、やぶさかではない。この先まことに必要なら、それも避けられぬやもしれぬ。……だがな。

昨夜からずっと考えておるのだが、他の答えが見つからぬのだ。


今、必要だと思うか?王妃はまだ十分若く、子を授かる為に日々身体を厭うておる。余の事を心から慕うてくれ、余も王妃が誰よりも愛しい……であるに、今、側室が必要か?」

「おっしゃるとおり……」


「側室の話は今までもあったが、王妃が望まぬ事ゆえ退けてきた。だが此度は、その王妃の口から…望んでおると。国母としての責務だと言うのだ。まことの胸の内を思うと……辛い。


チェ・ヨン。王であるが故に余は…妻を苦しめておる。だが王でなければ、あの人を妻にする事も出来なかった。それ故……今の己れの立場を悔いる事も、何を責める事も出来ぬのだ……


……すまぬ。やはり、ただの愚痴になったな」



はじめから分かりきっていた事。

もがいても、何も変わらない事。


それでも、吐き出す事で少しでも楽になるのなら——



「いいえ。愚痴を溢す事も必要だそうです。すとれす、とやらが軽減され、身体に良いのだとか」

「医仙がそう言うたのか?」

「はい。話す事は大切だと。妻は王様もご存知の通り、よく喋るおなごです。出会った頃は辟易したものですが、その妻がよく申すのです。“口に出さねば伝わらない”と。

言わなくても分かるだろう、察してくれるだろう、などという考えは、甘えなのだそうです。故に、必要な事は何でも話そうと。妻が戻って来てからは殊更、いろいろと話し合うております」

「成程。もっともだな」

「はい」

「……余も王妃を訪ねてみよう。とにかく、今一度話をせねばな」



王様の目に、ようやくいつもの穏やかさが戻った時——


外に控えていたアン内官から、「失礼いたします。入ってもよろしいでしょうか?」と、声がかかった。


「申し上げます。王様、左政丞(チャジョンスン)様がお出ででございます」

「イ・ジェヒョンが?」

「今は大護軍が来ているとお伝えしましたら、なおさら是非に、との事で……お通しいたしますか?」



しばし、王様と俺は顔を見合わせたが、「よい。通せ」と王様が返答されると、すぐさま左政丞が御前に……


そして、王様へ人払いを願い出て、更には、


「大護軍は残ってくれ。其方の耳にも入れておきたい」と言う。



余り良い話ではなさそうだ……



俺はまた、コモに諌められそうな態度で俯いた。

「副隊長(プジャン)。大護軍は……チェ・ヨンが何処に居るか、分かるか?」

「はい、王様。今朝は迂達赤(ウダルチ)の兵舎でお見かけしましたが、今頃はおそらく、禁軍の方々と軍議なのではないかと。 ……あの、お呼びしますか?」

「……いや、よい」

「は……」



朝のご政務を終えられ、康安殿(カンアンデン)でお過ごしの王様と、警護の任に着く迂達赤副隊長の遣り取り。


脇に控えながら私…アン・ドチは、ちら、と目線を上げ、竜顔を拝していた。



よい、とおっしゃった王様は、大きく溜め息を吐かれていて……


その鬱鬱としたご様子に、迂達赤副隊長は、目をぱちぱちさせて、しきりにこちらへ疑問符を投げかけてくるのだが——



どうとも答える事は出来ない。


私はただ首を左右に振り、再び目線を下げた。



王様がお悩みでいらっしゃるのは、誰の目にも明らかで。


日頃から、人の機微にあまり聡くはない副隊長でさえ(あっ…おおらかで気の優しい副隊長という意味で…)、いつもと違う王様のご様子に、戸惑いを隠せないようだ。


その理由は、もちろん昨夜の——



「……ドチャ」

「イ、イェ、王様」


不意に名前を呼ばれ、慌てて王様へ向き直り低頭する。



「独りになりたい。プジャンもだ……外に控えておれ」

「ですが、王様、」

「独りにしてくれ。少し考えたいのだ……」



最後は呟くようにおっしゃると、王様は、我々に背を向けてしまわれた。



やむなく、副隊長と共に康安殿(カンアンデン)から出ると、


「アン内官。王様はどうなさったのですか?今朝からお元気がないような……」


副隊長が、への字眉でボソリと言う。


それに釣られて、私もつい……



「今朝どころか、昨夜からだ……」

「え?」

「あ、いや……副隊長。チェ大護軍は、まだ軍議中だろうか?」

「はい、多分」

「そうか。少しここを離れる…王様を頼むぞ」

「え……あ、はい」



私は王様付きの筆頭内官。

王様が江陵大君(カンヌンテグン)であられた…人質として元国でお過ごしだった頃からずっと、ずーーっとお側近くにお仕えしてきたのだ。


恐れながら王様の事は誰よりも……うん、王妃様の次に……いや、チェ尚宮…王太后様もか? いやいや……

とにかく、よく存じ上げている…つもりだ。


故に、今の王様のお胸の内は、よくよく——


故に、私は大護軍を探しに来ている。



大護軍……大護軍は何処か……


ここは、大護軍にしか頼めない。


おそらく、いやきっと、残念ながら、私ではお役に立たないのだ……




「——チェ大護軍!頼みます!今すぐお出でくだされ!」 



そして、私は大護軍の姿を捉えると、その逞しい腕を掴み、訴えた。



……かといって、私の口から聞かせてよい事は何もなく……何事かと訝しむ大護軍へ、とにかく王様をお訪ねして欲しい、胸の内を聞いて差し上げて欲しい、お気持ちを楽にして差し上げて欲しい……としか言えず。



大護軍と康安殿へ戻ってくると、控えていた副隊長が「あっ、大護軍!」と、急に居住まいを正して頭を下げた。



王様はまだお変わりなく、中にいらっしゃるのか……


 

ひと呼吸してから、私は意を決して声を上げた。


「——王様。チェ大護軍が参りました」

「……呼んでおらぬぞ」

「……」



思い切って取り次ぐも、聞こえてきた王様のお声はくぐもっていて——



どうしたものかと逡巡していると、大護軍が、す、と扉の前に立ち、


「王様。チェ・ヨンです。入ってもよろしいですか?」



耳馴染む大護軍の落ち着いた声に……少しすると、幾分凪いだお声で、「——入れ」とのお返事があった。



大護軍は私と副隊長へ小さく頷くと、静かに扉の向こうへ入って行った。