お金がない!のあせりから今は抜け出られてるな。と
高井咲友莉 さんの記事▼を読んで思い出した。


4~5年前のわたし定番の泣き言

「お金がないから、〇〇に取り掛かれない。できる気がしないんです」

 

当時のわたしにとって、とても深刻な悩み事。そして、定番の泣き言が「お金がない」でした。

どうして、そうなるのか。まったくわけもわからず。
気づいたら「お金がない」がすべての理由になっている(といっても言い過ぎでないくらい)。

 

そのことをなんとか乗り越えたくて

高井咲友莉 さんが開いていたお金講座を受けてみたり。
半年間の自分を見つめるプログラムに参加したり。

そのなかで、わかったことは……

「お金がないから、〇〇に取り掛かれない。できる気がしないんです」

これは、ひとつのことではなかったということ。

 

・お金がない。

・〇〇に取り掛かれない。

・できる気がしない。

この3つが、もちゃっと適当にひっついただけだったということ。

 

この3つはひとつずつ。ばらばらの事象。
「お金がない」を言い訳につかって、「取り組めない。できる気がしない」ことを考えないようにしてきただけだった。

 

お金がない。に向き合う

「お金がない」を言い訳につかってたことが分かってから「お金がない」について、あらためて向き合った。

「お金がない」あせり、怖さのような感覚は本物か。繰り返し見直して、確認した。

 

「お金がない」怖さは、本物なのか??

焦らなければいけないほど、命の危機があるくらい、本当にお金がないのか?

 

そうして、自分のおかれている現実のことがらを確認する。

 

ちゃんと、今いきてる。暮らしていけてる。

(命の危機があるくらい、お金がないわけではない)

焦らず、こわがらず。今のじぶんができることをやって

「お金や現物支給でごはんを食べていけている」

 

「お金がない」怖さにつかまりそうになるたびに、このことを確認する。

 

繰り返し繰り返し、確認を続けていくうちに少しずつ泣き言が減ってきた。
自動的に「お金がない」怖さにつかまってしまうことが減ってきた。
 

そして、今

お金がない怖さはどうなった?

「お金がない」怖さは、お化け屋敷で会うゆうれいのように。
怖いけれど、アトラクションとしてわたしが見たくてみてるんだな。
 
フラットに、焦らず怖がらず、
正体を見極めようとみつめられる。
観察できるだけの怖さに変わってきていた。
(そして、そもそも「お金がない」と思いづらくなってきた)
 

愛と感謝へ。お金をつかうチャレンジ中でした

徹底して

 

愛と感謝とお礼のためだけに

お金を払います。

やってみたい。あいたい。食べたい。
すごく、欲望むきだしのような単純なところから出た動機から始まることを大切にとりくむ。

 

これ、やっといたほうがお得だから。と
損得で考える行動、頭で作り上げるよきことをやめる。

 

あったかさのようなうちに湧いてくる感覚を大事に動いてみる。

そうすると、じぶんの奥があったかくなる。
あたたかさは、そのうち自分を満たし、まるっと周って外へ向かう。

愛や感謝へ形をつくりやすくなっていく。

 

愛と感謝のためにつかったお金は、こころの奥がぽっとあったかくなる。

そのあたたかさは、ちょびっとずつつこころに溜まっていく。

 

今の私にとってお金とは?

お金や現物などいただいた物たちを

じぶんの肉体や身体の内でおこっている反応・感覚の触媒として実感しているようです。

 

お金や現物があるから、より行動が広がる。
「会いたい人に会いに行こう」
「より分かりたい、より知りたい。そして伝えたい」

「おいしいね、ごちそうさま。誰とわけあおうか」

わけあえる誰かを思い浮かべられる機会が少しずつ増えてると感じてます。

 

 

ほわんと。ことばにならない。
あいまいだった感覚を思い出す機会ができた。

そのめぐりあわせにありがとう虹

 

わけあえる誰かを思い浮かべる機会が
感謝やお礼につながっている(つながっていく)のかな。

 

いつもではない場でのたりとしながらお金を思い、

お金などを通してつながってく人たちのあったかさを思う。
そして、そこから見えてくる景色の柔らかさを願う。

 

素敵なおもいつき、素敵な考えを教えてくれる方たち、

文字や言葉にして伝えてくれる方たちにありがとう虹

 

そして、読んでくれる方たちにも、ありがとう虹