ようやく「鎮西探題」です!
6月12日、第10回博多133の会はようやく「今日は鎮西探題に進みます」との前置きで始まりました。「でもその前に、前回の宿題を片付けます」と、また例のごとく新たな資料がたくさん配られました。
福岡城の櫓の件、聖福寺古図の継ぎ目の件、さらには博多織の始祖と言われる満田弥左右衛門の件。いずれも歴史の専門家にはかなり重要な論点で、いろいろな資料を出され、詳細に御高説を展開されましたが、私の心ははや「鎮西探題」に飛んでいたので、あまり頭に入りませんでした。ごめんなさい。
「鎮西探題」は鎌倉幕府の幕府自体や六波羅探題に次ぐ重要な機関だったとのこと。しかしこれまでこの鎮西探題については、あまり明らかにされておりません。で、私たちはこの位置や役割についてはっきりさせようと意気込んでいるのです!
「鎮西探題」について記している古文書でいちばん信憑性の高いのは鎌倉時代、京都東福寺の僧の良覺が記した「博多日記」と言われるものだそうです。当初、みんなでこれを全部読んで行こうとの計画でしたが、あまりにも大部なので、重要な部分だけに絞られることになりました。今回はそのさわりだけで終わりました。来月から本格的に勉強します。

14日の現地説明会はあいにくの雨でしたが、十人ばかりのご参加をいただき、また昭和バスのガイドさん達も加わり、佐藤先生と福岡市観光案内ボランティア吉村さんの先導で、一時間半けっこう楽しく歩くことができました。まさに奥村玉蘭の絵と同じ大楠様を見、「ここからあの塀までが房州堀でした」とのご説明に、「なるほど~」と納得の地形を確認しました。

7月の133の会は12日、18時からです。みなさまのご参加をお待ちします