昨日の「133の会」、私は「鎮西探題」に話が進むだろうと予言していたのですが、「それはまだです」と軽く先生にいなされました。そのかわり、「これから初めにその日のテーマをみなさんにお伝え下さい」とお願いしました。で、今回は「土居町」についてということでした。
 「博多大水道」の南側に「土居町」の町名があります。土居(土井)というのはそもそも土手のことで、堀の内側に土を盛り上げた堤防を指しているということです。これは戦国時代には城の重要な防衛施設として整備され、現に福岡城の周りにも堀の内側にその名残がいまでもあるそうです。この土井という名称はすでに1351年の文献に出ているので、遅くとも鎌倉時代半ばにはここに土手が築かれていたのだと思われます。
 つまり、佐藤先生の「中世、博多は壮大な城郭都市であった」という意味の一つは、元寇後まず一番海側に石の防塁が築かれ(この遺構は博多小学校の中にあります)、その内側に大水道が掘られ(ホテルオークラとリバレインの間から明治通りあたりです)、さらにその内側に土塁が築かれた、この強固な三重の防衛戦で博多の街は守られていたということなのです。
 このことについて参加者から「土居町の通りは、大水道と直角になっているが」との質問がありました。佐藤先生「昔は、土居町の地名はもっと広範囲に使われていたのではないかと思われます」
 博多の街をボランティアガイドされている参加者によると、たしかに今でも土居町から離れたところで大水道の南といわれている場所で、周囲に比べて一段と高くなっている所が散見されるそうです。また老師からも「町名はその後の太閤町割などで、ずいぶん変わったでしょうね」とのフォローもあり、佐藤先生、自説が受け入れられたと一安心。「近いうちに、現地調査をしましょう」ということで、終わりました。
 今回のお斎は、蕗ごはん、豆腐・里芋・椎茸の炊き合わせ、果物いっぱいの野菜サラダ、昆布の佃煮、具沢山みそ汁と、毎回、だんだん豪華になってきます。このひとときも大きな楽しみのひとつです。次回は5月10日、お楽しみに!