2月9日 第6回博多133の会

たぶん今年最後の雪でしょうか、花びらのようにちらほら舞っている中で、聖福寺の「机の間」で開催されました。
佐藤先生は、前回のみなさんの質問にきっちり応えるべく、またまた資料をたくさん用意して来られました。
まず伽藍配置について。禅宗の伽藍配置は移入された中国を真似て、南北に一直線上に堂塔を並べる。南に総門、そこをくぐって放生池、三門、仏殿、法堂、これを南北に一直線に並べるのが禅宗の特徴だということです。そして聖福寺も創建当初この様式を忠実に守っていたということです。もっともこの一直線は南北ではありません。それを南北に見立てて、右側に東門、左側に西門を造っていました。南北朝時代の地図にそう書かれています。西門はいまの「西門かまぼこ」のあたりです。
つぎにあまりにも私たちが「博多大水道」の場所を正確に書くことができないので、とうとうご自分で今の地図に書き入れたものを配ってくれました。それもきれいに半町ごとの升目を入れたものを。そうするとなんとフシギ、大水道はきれいに升目の線に重なるのです。そしてまた聖福寺の伽藍の基軸線とも升目はきれいに重なります。当時は町単位で測量して街づくりをしたということでしょうか。
またこの大水道の幅ですが、文献によるとそこには「長橋」が架けられていたということです。長橋だから、あまり狭い水道ではないでしょう。また福岡市教育委員会の発掘の写真によると、大水道の浜側には乱杭や柵のあとが見えます。
つまり佐藤先生の説では、二度目の蒙古襲来に備えて、まず防塁をつくり(博多小学校の校庭内にこの遺構があります)、それでもなお備えが必要な博多の中心部には「博多大水道」を造ったということになるのです。
あ、少し先走りしすぎました。これからまだまだ様々なお話が登場し、中世の大都市「博多」の全容が明らかにされます!
この日の夜はまたまた御老師様が揚げて下さった野菜の天ぷらと具沢山お味噌汁で、心もおなかも満たされました。

ところで、このブログを上げるまでの、「博多133の会」のこれまでの記録も掲載しておきます。


<博多133の会>

博多の歴史を愛する同好の士が集まって「今のままの博多ではいかんバイ、きっちり博多の歴史ば勉強しようや」ということになりました。博多といえば 聖福寺、なにしろこの聖福寺の伽藍の基軸線を基準として博多の町が整備されたのだから、ということでこの聖福寺の133代目の細川白峰老師と、中世博多の 研究者である佐藤鉄太郎先生を中心に、ちょっと硬派の勉強会を企画しました。
みなさまのご参加をお待ちしています。

第一回講座
平成23年9月15日

この日は予定以上の40人のみなさまに参加していただき、久しぶりの歴史講座開催に嘯庵は熱気にあふれていました
佐藤先生はまず一般に流布されている中世の博多の復元図を紹介されました。貝原益軒の『筑前国続風土記』の記述などにもとづいて福岡市博物館などが復元し た中世博多の地図があります。しかし、このようないわば通説は、そのまま信じるわけにはいかないというのが、佐藤先生の持論です。
そのひとつ、広く「唐人町側から見た黒門」とされている幕末の頃の写真は、じつは「石堂川の東側から見た石堂口門」であることが証明されました。写真に写っている一行寺は、今でもそのままの姿であります。
今に伝えられている歴史の誤りはいくらでもあることと思います。佐藤先生がそのいくつかをミステリーの手法で解き明かします。そして、中世の博多がいかに世界に誇れる城郭都市であったかを教えてくれます
まだ今回はイントロのイントロ、これから話は始まります。聖福寺の白峰老師との掛け合いがとても新鮮で、あっという間に時間は過ぎてしまいました。

第二回講座
平成23年10月21日
聖福寺にて

第二回目のこの日は聖福寺で開催させていただきました。でもあいにくの大雨、また、聖福寺の場所がよくわからない方もいらっしゃいました。それで も、訪ね訪ねて来られたみなさまは、日頃入ることのない広い僧院の中を心行くまで見ることができ感激。講座は方丈の間で行われました。
第2回目の内容は「房州堀」と「博多東の郭門(辻堂口門)」についてでした。
「房州堀」とは中世の博多の南側の防備の為に掘られた人工の堀のことです。これが誰によっていつ作られたかという事ですが、とりあえずは現在の地図からそ の位置を確認していくという作業から始まりました。その過程で、「博多東の郭門」が現在の「出来町公園」南端の西寄りの位置にあったことを確認しました。
筑前名所図絵や三奈木黒田家所蔵の古地図や、またさまざまな古地図、さらには現在のゼンリンの住宅地図まで突き合わせて、それぞれの場所や形を推定する作業は、とても骨の折れる仕事ですが、しかし突き止めた時のうれしさは格別で、みなさん大変集中された二時間でした。
この日の講義の終了後は、白峰老師の心づくしの生姜の炊き込みご飯と佃煮の数々がふるまわれ、感激もさらなる一日でした。

第三回講座
平成23年11月18日
嘯庵にて

今回は、白峰老師は身内のご不孝の為、急きょ欠席されました。しかし、メンバーには福岡市観光案内ボランティア協会の方々なども加わってくださり、佐藤先生はますます張り切ってこられます。
今回の主題は、房州堀の位置とそれが作られた時期についてです。
ここでもう一度先回のおさらいです。出席したすべてのみなさんが房州堀の位置をはっきりと確認しました。さて、そこで通説の房州堀の位置と重ね合わせま す。ちょっとずれています。さらに通説の位置では、謝国明の墓や大楠様が堀の中に埋まってしまいます。これは合点がいきません。佐藤先生お得意の持論の展 開です。
また房州堀が掘られた時期については、現在の研究者がすべて貝原益軒の説を踏襲し、16世紀半ばの土木工事であるとしています。しかし、佐藤先生はこの房 州堀を示す「堀田」とか「いぬかいのほり」という地名は、鎌倉時代や南北朝時代の文献に出ていることから、鎌倉時代にはすでに掘られていたと主張されま す。通説とずいぶん時代が違います。
さあ、これからどんどん中世の博多の実像が明らかにされます。
なお、次回は12月16日、また聖福寺で開催されます。どうぞお楽しみに!

第四回講座
平成23年12月16日
聖福寺にて

この日の方丈は凍える寒さでした。石油ストーブを二台出していただいていましたが、あまりに広いのでちっとも暖まりません。それでも前回説明された「房州堀」を、今回は自分で地図の上に確認しようという目的で、博多部の昔の地図と現代の地図とを重ねあわせながらの作業は、いっとき寒さを忘れさせてくれました。
終わってからの芋ご飯と具沢山のお味噌汁、いろいろなお漬け物とおいしくいただきました。

第五回講座
平成24年1月12日

今年から毎月第二木曜日、聖福寺での開催と決まり、ようやく安定した感があります。ただ出席者もここのところ毎回二十人程度と、この力を入れた講義のわりにはちょっともったいない感があるので、少し声かけをしようかなと思っています。場所も方丈では広すぎるので、「机の間」と呼ばれているエアコンのある部屋をお借りしました。手狭ではありますが、なかなか居心地のよい部屋です。
さて、今回も地図の上での確認作業。お正月の間の宿題として配布されていた住宅地図を張り合わせて作った博多部の大きな地図の上に「博多大水道」を書き込んで行きます。佐藤先生の魂胆は、これが聖福寺の伽藍の基軸線と平行あるいは直角で、さらに正確に1町2町という町単位で測量して造られたものであるということを参加者に納得してもらいたいわけですが、線引き作業が大変。あげくには「伽藍が本当にまっすぐに配置されていたのか」とか、「大水道の幅はどれくらいか」などと、質問攻め。とてもヒートアップした回でした。
最後は聖福寺のお餅でできたお雑煮で締めました。