もしも、あの時結婚していなかったら。

もしも、子どもを産んでいなかったら。

 

ほとんどが葉桜に変わった春の終わり。

新緑に混じって、残った僅かな花びらが舞い散る

私が代わりに!僕が代わりに!と言わんばかりに

桜の木の下で息を潜めていた小さな野花達が

地味なりにも、色とりどりに咲き乱れている。

桜と一緒に咲き誇った菜の花の大群だけが

共に咲いた最後の桜吹雪を惜しんでいるようだ。

 

篠田カレンは、20年この景色を見て来た。

待ち望んだ春が来て、そして去っていく。

 

「もう、20年か」

と呟いて、すぐに言い直した。

「まだ、20年か」

 

職場の恋人と出来ちゃった結婚をして20年。

パートをしながら、子供3人を育てている。

別に大きな不満はない。

何より子供達は可愛い。

夫も稼いでくれている。

 

でも…でも。

桜が舞い散るこの季節になると

毎年なぜか、心がざわつくのだ。

私、このままでいいのかな?と。

 

小さな茶色いトイプードルの散歩をしながら

深いため息をごくん、と飲み込んだ。

お腹いっぱいなのに、とても甘い珈琲を

おかわりしなきゃいけないような…

そんな、少し重たい満腹感。

 

満腹感は幸福感?

きっと、これは単なる贅沢病なんだ。

私はたぶん、いや間違いなく、存在しない青い鳥を追いかけているんだ。

もう、やめよう!

体中に取り憑いたモヤモヤを振り払うように

軽く頭を振って、愛犬の紐を引っ張ってみた。

道端の臭いを嗅ぐ楽しみを邪魔された愛犬は

なんだよ、という顔で私を見て

それでも仕方なく歩き出した。

愛犬の名前は「丸」。

友人から譲り受けた生後3ヶ月のころ、

まるまると太った子犬だったから

3秒でつけた単純な名前だ。

でも、私は気に入っている。

少なくとも自分の名前よりは。

 

カレン。なんで、カタカナなんだ。

おばあちゃんか!と40年間思い続けて来た。

憧れていたアナウンサーにはなれなかった。

大学は行ったけど、地方の三流大学だった。

中学も高校も地味な制服を着て地味に通った。

「冴えない人生」

そんな言葉が時々よぎり、その度に私は

水に濡れた犬のように自分の頭を振って

その言葉を薙ぎ払って来た。

 

子供たちが学校から帰って来れば

雑多な事で忙しすぎて、一時忘れる事が出来る。

子育てを頑張る母、世間体的には体裁は充分だ。

でも、ふっとした瞬間頭をよぎる

嫌な言葉を根底から消すことが出来ない。

「冴えないねー!!」

びっくりして振り返る。

初老のご婦人2人が散歩しながら談笑している。

どうやら、お互いの旦那さんの悪口のようだ。

冴えない、という言葉が悪い呪文のように

私の全身を包み込んで来る。

いつもの事のようだけど、今日の気分の落ち込みはひどい。生理前だったかな?まさか更年期?

早く、丸のおトイレを済ませて帰ろう。

「ほら、早くしなさい!いつまでダラダラ道端の匂いを嗅いでるの」

八つ当たりされて、丸は不機嫌そうだ。

 

あと10歩程で玄関に着く、というところで携帯の着信音が鳴った。

お養母さんからだ。

「あら、お義母さん。お久しぶりです。どうされ・・・」

鍵を出しながら笑顔で言いかけた私の挨拶をお義母さんは遮って告げた。

「お父さんが死んだの」

「へ?!え?・・・え?」

あまりに唐突な事に、私は言葉らしい言葉が出せない。数秒頭の中で考える。

お義父さんが死んだ?病気なんて聞いていない。先週まで元気だったはずだ。

「ど、どうして?い、いつ?それは・・・本当ですか!?いま、どこですか?」

私はようやく言葉を発したが、何から聞いてよいのか分からなかった。

「朝ごはんを食べ終わって、庭のお花に水をやって帰ってきたら、ソファで。

 寝てるのかな?と思って声をかけたけど、起きなかったの。死んでたの。」

お義母さんの声は不思議なほど、落ち着いていた。いま救急車と警察を呼んでいるという。

「これから行きます!!」

パート先のスーパーに急いで電話をして、私はタクシーに飛び乗った。

夫には電話したのだろうか?と思いながらタクシーの中で電話をする。

夫は出ない。LINEを打つ手が少し震える。死んだなんて・・・。

既読にならないまま、お義母さんたちの古い一軒家に着いた時には、既に警察が来ていた。

「お義母さん!!」

検視中の警察官たちの後ろで、お義母さんは静かに椅子に座っていた。泣いてはいない。

私と目が合って、悲しそうに、でも少し微笑んだ。

「大丈夫ですか?お義父さん、本当に亡くなったんですか?」

「うん、死んじゃったみたい・・・今朝は一緒に朝ごはん、食べたのにねぇ・・・」

 

80才を超えていたので、検視でも老衰でしょうとは言っていたが、

突然自宅で亡くなった為、一度警察がご遺体を預かることになった。

リビングに私と二人きりになって、お義母さんは静かに話し始めた。

「昨日の夜ね、珍しく二人で晩酌したの。お義父さんが勧めてきてね。

 私はほんの2-3口だったけど、一緒に日本酒を飲んだ。

 その時ほろ酔いでお父さんが言ったの。ありがとうって。

 唐突に言うから、なにが?って聞いたけど、答えなかった。

 だから、お父さんが息をしていなかった時、なんだか納得しちゃったの。

 悲しかったけど、驚かなかった。落ち着いているなあと思ったでしょう?」

静かに語るお義母さんは、お父さんと食事をしたテーブルをじっと見ている。

 

「朝ごはんはね、いつもよりモリモリ食べたのよ。

アジの干物と、お豆腐のお味噌汁と、甘い卵焼き。

"ちょっと卵焼きが焦げてるな"って言ってたけど。

50年以上卵焼き作ってきたのに、最後まで焦がしたの食べさせちゃったな・・・」

そこで、お義母さんが、初めて泣いた。

私もようやく状況が飲み込めてきて、泣いている背中をさすってあげることが出来た。

 

いくつかの手続きを済ませて、その日は一旦家に帰ることにした。

帰りの電車の中で考える。

お義父さんはどんな人だったのかな。

お義母さんはお義父さんと結婚して幸せだったのかな。

昔ながらの頑固で厳しいお義父さんで、

あまり明るく楽しい家庭ではなかったと聞いている。

家に着いて玄関を開けると、そこに夫が立ち尽くしていてびっくりした。

私の顔を見るなり、「うわーん!!」と子供のように大声で泣きだした。

「えっ・・・!」普段は感情を表に出さない夫だけに一歩引いてしまう。

まだ子供たちは学校から帰っていないようだ。

気を取り直して靴を脱ぎ、泣きわめく夫を抱きしめた。

「あんた、なんで家にいるのよ。早くお母さんのところ、行ってあげなさいよ!!」

私からのLINEを見て気が動転しすぎた夫は、

なぜか慌てて自分の家に帰ってきてしまったらしい。

2日分ほどの泊りの準備をさせて、またタクシーを呼び、

夫をお義母さんのいる実家に見送った。

 

中学生の2人は部活で遅くなるが、1番下の小学生が帰ってくるまで、

あと30分ほどだろうか。

ずっと喉が渇いていたことを思い出して、自分を落ち着かせるためにも、

温かい緑茶を淹れた。

 

頑固で融通の利かなかったお義父さん。

でも、最後に妻であるお義母さんに「ありがとう」を伝えた。

普段は元気で感情豊かなお義母さん。

でも、お父さんの死に動揺することもなく、私に静かに語った。

堅苦しい家庭で育ってユニークさに欠ける夫。

でも、父親の死に動揺して私の前で子供のように泣いた。

いろんな「意外」を見た半日。

 

この20年になにかひとつ、区切りがついたような、そんな感じがした。

「あっ」

なんだか分からないが、私はひとり、そんな声をあげて急に立ち上がる。

 

目の前に、まばゆいほどの光が差す。

まぶしい。光の先に何かいるけど、まぶしすぎて見えない。

なに?これはなに?

霊感なんて全くない私は、それがお義父さんだなんて、しばらく気が付かなかった。

光の中にぼんやりとしたシルエットしか見えないけれど、その影は私に語り掛けた。

「俊之と結婚してくれて、ありがとう。あれは、私によく似てる」

「かわいい孫を生んでくれて、ありがとう。私は幸せだったよ」

「・・・お義母さんを頼む」

 

最後にそう言って、光は消えた。

1分かそこら、いやほんの数秒だったのかもしれない。

お茶は熱いままだった。

 

妙に落ち着いたまま、

私は「お義父さん、きっとお義母さんの事が心配なのね」と思う。

お義母さん本人でもなく、息子でもなく、

義理の娘の私に伝えに来たのはなぜだろう?

理由は分からないけど、なんだか少し、誇らしい気持ちになった。

このことはきっと、誰にも言わないだろう。お義母さんにも。夫にも。

 

でも、明日から、精一杯生きていこう。

不思議なほどに体中に力がみなぎった。

気が付くと、丸がじっと私を見ている。

「丸、もう一回散歩行くよ!!」

突然言われて、丸は目をまん丸くした。