いつも不安で生きてきた

アラフィフみよちです

 

心の病みで真っ暗だった50年

 

 

そこから一転

 

 

本質的な幸せを感じられる心を

取り戻すことが出来た


そんな私の過去のストーリー

を綴ったブログです


 





私、昔、とーっても苦手なママ(友?)がいた。娘(今は大人)の小学生の【スポ少】からの付き合い。私の娘は4年生から入団した。すでにそのママは役員もしていて、とっても偉そうにしている人だった。みんなが、みんな「本当あの人無理〜!」って嫌っていた。自分の子供が試合から外されれば、コーチに暴言を吐き、試合中でも『バカやろー』って言う様な人だった…。自分の思い通りにならないと不機嫌、さらに人に当たり散らす…。子供達にまで。

  




そしてそのママ(友?)は、今度は私の息子達がいるスポ少に、弟を入団させたのだった…。





娘のスポ少だけでなく、今度は息子のスポ少まで一緒になってしまった。





送迎、付き添い当番やら、練習試合やら、毎日毎日顔を合わす日々…。本当に苦痛でしかなかった。あの頃はこの言葉があったのかわからないけど、【マウントをとる】を、顔を見るたびにされ続けた!どうにかこの苦痛から逃げたい。それだけだった。





そして私は【嫌いな人との付き合い方】とか、【嫌いな人が嫌いじゃなくなる】って類いの本に走った!(笑)
某月刊スピの本からまた、探し出したのだった…。





その本の、詳しい内容はすっかり忘れたけれど、眠る前にその嫌いな人を思いながら、『ありがとう』だったかそんな感じで唱えるというものだった。




唱える系…。またもや(笑)



なーんにも嬉しくもないのに、『うれしい』『幸せ』『ありがとう』ってブツブツ言ってたりもして時期もあったな〜。




そしてまた、実行した(笑)





【大っ嫌いなのに】その人を思いながらありがとうと!感謝を送った?【大っ嫌いなのに〜】





何日か経ったら、なんか【なんともなくなった!】全然気にならなくなっている。なんなら楽しくお話までしている。良かった〜!って。さらには『あの人本当はいい人よ』なんて、言ってまわったりして。




ってしばらく喜んでいたけれど、、、。




気がつけば、うま〜く利用されていただけの話だった。



私の元の旦那なんて、搾取タイプのすごくズルい人だったのだけど、そんなズルい人からも『あの人からいい様に利用されてるのが、なんでお前はわからないんだっ』って怒られたりしていた。







私は離婚している。




離婚する時に人間関係も整理した。その時に【心の整理】もした。自分は【誰】といつもいたのか?【何】があったのか、友達をすべて見直したら、、、!






利己主義でなんだかズルい子がいつも一緒だった!職場でも。そうか!私の【母】だ。【私の母と全く同じタイプの人】と、ばかり一緒にいたんだ!馴染みすぎて、利用されているのも気が付かなかった…。






幼少の頃から【母に愛されたかった】【嫌われたくなかった】



限りなく【迎合していた】



そしていつも支配されていた。
それを愛だと思って生きてきた。





だから支配する人に囲まれても、まったくわからなかった。当たり前過ぎて。しかも馴染んでいる(怖っ)


 


そのママ(友?)のことなんて、大っ嫌いなのに!感謝なんてしてないのに、感謝して、さらには『いや、あの人、本当はいい人よ』なんて言って回る。本心を隠して隠して…。自分に嘘をついて…。人にも嘘をついて…。







まさに私の幼少期の繰り返し。これが私のパターン。






嫌いな人にでも、好かれたい…。嫌われたくない…。そうやって【自分に嘘をついて】生きてきた。






こうゆう母みたいな人達を、【大っ嫌いな人を大っ嫌い】ということを受け入れることが出来なくて、真逆なことをしてきた。





【自分がない】からどんどん【迎合】していった。




〜引用始まり〜

信頼する人がいれば迎合せずにすむ

 迎合するのは、その人の心の中に信頼する人がいないからである。
 もし信頼できる人がいれば、迎合はしない。不安だから迎合するのである。困った時に自分を助けてくれる人がいると思えば、無理して迎合はしない。


 無理をして迎合すれば、心の底で敵意を持つのは当たり前のことである。そして心の底に敵意を持ってしまった人は、その後の人生は生きにくい。


隠された敵意が素直になることを邪魔する。
人とのコミニケーションもうまくいかない。そして



生きるのが苦しくて、人に恨みを持ちやすい。


迎合することで、結果として敵意を持ってしまった人は、自分の隠された強さを自覚することが第一である。


普通なら信頼できる人がいなければ、この世俗の中を人は生きてこれない。


それなのに、迎合しながらもとにかくこの世を生き抜いてきた。それはすごいことである。


信頼できる友人を持っている人が、世俗の中を生きてきたのとはわけがちがう。
信頼できる人がいる人は、もともと迎合する必要などどこにもない。


そして信頼できる人がいる人は、能動的になれる。
前向きになれる。能動的になることで、人生の多くの問題は解決する。


それがなくて今日まで生きて来たのである。その自分の忍耐力とエネルギーに気がつくことである。


今は生きることに疲れているかもしれない。しかし、消耗しているのは当たり前のことである。エネルギッシュであることのほうがおかしい。


今は生きることにつかれていてもよい。



すでに説明しているようにフロム・ライヒマンが言うように愛されなかった人は対象無差別に愛を求める。




そして彼らが、犠牲者という自己の役割を永遠に取り続けるのは認めてもらうためである。



そしてこうゆう人のまわりにには、人から搾取しようとする人が集まっている。周囲の人は、ヒルみたいにその人にしがみついている。搾取する人は、同じように心が病んでいる人から搾取しようとする。


迎合する人の周りにはズルい人が集まる。搾取タイプの人が集まる。そして迎合する人は、搾取タイプにさえ迎合する。いいように利用される。搾取される。




そして迎合するたびに、相手が巨大な存在になってくる。相手は弱くて、ずるい人であるにもかかわらず、強くて尊敬すべき人に見えてくる。


逆に迎合するほうは、利用されるたびに自分が小さな存在に感じられてくる。迎合するたびに、自分が取るに足らない存在に感じられてくる。



迎合するたびに、迎合すればするほど相手は立派な人に感じられ、自分はいよいよつまらない存在に感じられてくる。



ずるい人にとって、これほどおいしい人はいない。搾取するたびに自分が尊敬するされるのである。



ずるい人が一度これを体験したら、この相手を離さない。どんどん図に乗る。そして相手に尊敬を要求するまでになる。



不安から迎合する人のまわりには、こうしたずるい人が集まる。




迎合している人の人間関係はこうした搾取・被搾取の関係である。


それでも今日まで生きてきたのである。
その自分のエネルギーに気づくことである。 


普通の人ならとうにまいっている。生きられなくなっている。「生きるのに疲れている」などと言うレベルではない。
動けなくなっている。


うつ病になって当たり前である。
愛されることなく、利用されるだけ利用されて、今日まで頑張って生きてきたのである。
今、息をしているだけでも「私はすごい」と思わなければならない。


不安から迎合して生きてきた人の人生は、信頼する人がいる人には想像もできない苛酷な人生だったのである。


経済的苛酷さは眼に見える。


しかし、そういう人の味わう苛酷さは眼には見えない。だから本人さえもが気がつかない。


小さいころから頼れる人がいないということはどのくらい苛酷なことなのかは、頼れる人がいた人には想像できない。



頼れる人がいないということは、
見捨てられる恐怖に怯えているいうことである。
1人では生きていかれない。


そこで、あらゆる危険な感情を自分の中に閉じ込める。


怒りも憎しみも悔しさも皆、自分の中に閉じ込めて封印する。 


そして毎日毎日、来る日も来る日も新しいマイナスの感情を心の中に閉じ込めていく。



それが膨大な量になった時に、うつ病になったり、自律神経失調症になったり、不眠症になったりするのであろう。



殺したいほど嫌いな人と「親しく」していなくては生きていかれない。その苛酷な矛盾の中で、心理的に挫折するのは当たり前である。

〜引用終わり〜





この本は私のために書いてくださったのっ?(笑)
そう思うほど衝撃を受けた本。



そして数ある加藤諦三先生の本から、この本を引き寄せた自分にもびっくりした。


【本当の自分にとって必要なもの】はこうやって来てくるんだなって、つくづく思う。



本心で嫌いな人を好きと思い込み、本心で嫌いな人に囲まれて、本心で嫌いな人に、いいように利用されてまで一緒にいるんだから、それは苦しいはず…。それでもそれが当たり前すぎて気づけない…。【自分を知る】って本当に大事だなっていつも思う。