いつも不安で生きてきた

アラフィフみよちです

 

心の病みで真っ暗だった50年

 

 

そこから一転

 

 

本質的な幸せを感じられる心を

取り戻すことが出来た

 

 

そんな私の過去のストーリー

を綴ったブログです







私の祖父(母の父)は、戦死した。幼い2人の姉妹を残して。『お母さんのお父さんはどんな人?』って私が小さい頃、母に聞いてみた。「知らないの、お父さんのこと」って。目に涙をためて、唇をキュってした母をみて…なんだか悪いことしちゃったな、、って。それからはその話題はしなくなった。






私の母は、大きな米屋さんに嫁いだ。【できちゃった婚】だったと大人になってから、親戚から聞いた。その大きな米屋さんは実は火の車だった。結婚してすぐに、母の嫁入り道具などの家財に【赤紙】が貼られたと言う。当時でいうと【借金のかた】の様な事だと思う。その話を母は武勇伝のように、「ぜんぜん怖くなかった!平気だった」って小さい頃から聞かされていた。すごいなー、お母さんって思っていた。





私は離婚した。






結婚していた時に【赤紙】がきた。税金滞納の末、役所から封書で届いた。【財産差押え】の文字、、。
さらには、土日しか休めないと言って取り合わないその世帯主に代わって、私が呼び出された…。








祖母は【赤紙】(戦争の召集令状)が届いた時、とても恐ろしく、不安、絶望、、私の想像を絶する【感情】があったと思う。だけど戦時中、誰にも言えず、思うことも出来ず、苦し過ぎるその感情を抑圧した。そうするしかなかった。幼い2人の姉妹を必死で育てた。まわりも皆そうだったから、泣き言さえ言えずに、、、。祖母の実家は大きな農家だったらしい。働いて、さらに農家も手伝って、いつも実家から野菜をもらってきていたと聞いた事がある。





母も【赤紙】を貼られた時、本心はとても恐ろしく、不安、絶望だったと思う。大きな米屋に嫁いで、安泰かと思いきや、米屋は火の車、、。そして自分の選んだ男は遊び人だった。お腹には赤ちゃん…。お金が無くなると祖母を頼っていた。





そして私も【赤紙】が届いた時は、恐ろしく、不安、絶望だった。借金だらけ、幼い子供3人、甲斐性なしの旦那、毎日どうやって暮らしていけばいいのかわからないほどだった。よく、母に泣きついた。







も、私と一緒のエンパス体質だったのだろう。祖母の感情を自分の感情だと思い込んで、持っていたのだろう。





こうして女三代の【赤紙】による【負の連鎖】が出来たんだと思う。





その感情をただ、ただ感じた。溢れ出て止まらない涙と共に。怖い、辛い、悲しい、



怖かったね、悲しいね、辛かったね、、




【助けて】言葉にも出して。



祖母、母、あの頃の私の【言えなかった】言葉。
祖母はもう他界している。
だけど少しでも【癒えて】くれていたらと思う。



言えるは癒えるのだから