いつも不安で生きてきた

アラフィフみよちです

 

心の病みで真っ暗だった50年

 

 

そこから一転

 

 

本質的な幸せを感じられる心を

取り戻すことが出来た

 

 

そんな私の過去のストーリー

を綴ったブログです

 








私は反動形成で【尽くす人】だった。尽くされたくて、尽くされたくていたから【尽くした】だけであって、【その人を思って】とかではなかった。でも私にとってはすごく尽くしたつもりでいた。そして散々尽くして、【こんなにしてあげたのに】って自己犠牲的に生きて恩を売る人だった。








さらには私、【嫌われたくない】人だった。意識では【人に嫌われるのなんてこわくない!全然平気】なのに無意識では【嫌われたくない!怖い!】って怯えているのだった。だから私はすべての動機が【人から嫌われたくない】だった。








全ては動機だよ。同じ行動でもすべては動機なんだよ。って教えてもらったことがあった!






私は【嫌われたくないから】がいつも動機だった。






【嫌われたくない】からどんどん【迎合】していった。嫌われたくないから、いつも人の意見にあわせてきた。小さい頃から言いたいことが言えない。自己主張もできない。私は、昔から喉全体ににまるでガラスの破片がへばりついているんじゃないか?と思うほど、ずーと、喉の不快に悩まされていた。



今は心の奥底に押し込めた、怒り、憎しみ、敵意を解放したからそのガラスの破片も取れて、その不快はなくなった。



〜引用始まり〜

喉の障害

考えられる原因・内的要素

自分のことを自由に話せない。怒りを飲み込む。想像力が伸びない。前向きに変わりたくない。

〜引用終わり〜




でも、人からは【いつも言いたいこと言えていいね】【ハッキリしてていいね】とか言われていた。




私はエンパス体質だった…。とても共感力が高い。




自分の感情なのか、その人の感情なのかわからなくなるほど。そしてその人の感情が、手に取るようにわかるから、口に出してしまうのだった。小さい頃から【何が何だかわからない】そんな毎日だった気がする。





そして迎合していった先には【ズルい人】が待ち受けていた。だけど小さい頃から【ズルい人】に囲まれていたから中々気がつけなかった…。



〜引用始まり〜

信頼する人がいれば迎合せずにすむ

 迎合するのは、その人の心の中に信頼する人がいないからである。
 もし信頼できる人がいれば、迎合はしない。不安だから迎合するのである。困った時に自分を助けてくれる人がいると思えば、無理して迎合はしない。


 無理をして迎合すれば、心の底で敵意を持つのは当たり前のことである。そして心の底に敵意を持ってしまった人は、その後の人生は生きにくい。


隠された敵意が素直になることを邪魔する。
人とのコミニケーションもうまくいかない。そして



生きるのが苦しくて、人に恨みを持ちやすい。


迎合することで、結果として敵意を持ってしまった人は、自分の隠された強さを自覚することが第一である。


普通なら信頼できる人がいなければ、この世俗の中を人は生きてこれない。


それなのに、迎合しながらもとにかくこの世を生き抜いてきた。それはすごいことである。


信頼できる友人を持っている人が、世俗の中を生きてきたのとはわけがちがう。
信頼できる人がいる人は、もともと迎合する必要などどこにもない。


そして信頼できる人がいる人は、能動的になれる。
前向きになれる。能動的になることで、人生の多くの問題は解決する。


それがなくて今日まで生きて来たのである。その自分の忍耐力とエネルギーに気がつくことである。


今は生きることに疲れているかもしれない。しかし、消耗しているのは当たり前のことである。エネルギッシュであることのほうがおかしい。


今は生きることにつかれていてもよい。



すでに説明しているようにフロム・ライヒマンが言うように愛されなかった人は対象無差別に愛を求める。




そして彼らが、犠牲者という自己の役割を永遠に取り続けるのは認めてもらうためである。



そしてこうゆう人のまわりにには、人から搾取しようとする人が集まっている。周囲の人は、ヒルみたいにその人にしがみついている。搾取する人は、同じように心が病んでいる人から搾取しようとする。


迎合する人の周りにはズルい人が集まる。搾取タイプの人が集まる。そして迎合する人は、搾取タイプにさえ迎合する。いいように利用される。搾取される。




そして迎合するたびに、相手が巨大な存在になってくる。相手は弱くて、ずるい人であるにもかかわらず、強くて尊敬すべき人に見えてくる。


逆に迎合するほうは、利用されるたびに自分が小さな存在に感じられてくる。迎合するたびに、自分が取るに足らない存在に感じられてくる。



迎合するたびに、迎合すればするほど相手は立派な人に感じられ、自分はいよいよつまらない存在に感じられてくる。



ずるい人にとって、これほどおいしい人はいない。搾取するたびに自分が尊敬するされるのである。



ずるい人が一度これを体験したら、この相手を離さない。どんどん図に乗る。そして相手に尊敬を要求するまでになる。



不安から迎合する人のまわりには、こうしたずるい人が集まる。




迎合している人の人間関係はこうした搾取・被搾取の関係である。


それでも今日まで生きてきたのである。
その自分のエネルギーに気づくことである。 


普通の人ならとうにまいっている。生きられなくなっている。「生きるのに疲れている」などと言うレベルではない。
動けなくなっている。


うつ病になって当たり前である。
愛されることなく、利用されるだけ利用されて、今日まで頑張って生きてきたのである。
今、息をしているだけでも「私はすごい」と思わなければならない。


不安から迎合して生きてきた人の人生は、信頼する人がいる人には想像もできない苛酷な人生だったのである。


経済的苛酷さは眼に見える。


しかし、そういう人の味わう苛酷さは眼には見えない。だから本人さえもが気がつかない。


小さいころから頼れる人がいないということはどのくらい苛酷なことなのかは、頼れる人がいた人には想像できない。



頼れる人がいないということは、
見捨てられる恐怖に怯えているいうことである。
1人では生きていかれない。


そこで、あらゆる危険な感情を自分の中に閉じ込める。


怒りも憎しみも悔しさも皆、自分の中に閉じ込めて封印する。 


そして毎日毎日、来る日も来る日も新しいマイナスの感情を心の中に閉じ込めていく。



それが膨大な量になった時に、うつ病になったり、自律神経失調症になったり、不眠症になったりするのであろう。



殺したいほど嫌いな人と「親しく」していなくては生きていかれない。その苛酷な矛盾の中で、心理的に挫折するのは当たり前である。

〜引用終わり〜