おはようございます

もうね、この日はね
この話題から避けられません。

阪神淡路大震災 29年目


私の家は大阪府豊中市だったけど

断層からすこしそれただけなので

めっちゃ揺れました。


青丸の地域です。




直後の震度発表では震度4と報道され

車の中で「んなわけないやろ!」と

父と2人激怒した記憶アセアセ


この駅からそう遠くないところ。


家の中は家具は全て倒れ、

倒れた食器棚の下から

額から血を流したおばあちゃんを見つけ、

父がおぶって外に出ました。


なにか持ち出す事なんて

考えられなかった。


着の身着のまま。

その言葉がピッタリでした。


我が家は半壊だけど

家の周りは古い農家たちがぺちゃんこ。



朝になると

電話がすぐ職場に繋がったので


「すみません!早番できません!」


と言ったら


「あほかいな!来なくていい!」


職場の隣の神社は

鳥居も狛犬も灯篭も倒壊したけど、

重量鉄骨の堅牢な園舎は

びくともしていませんでした。


「ピアノが3メートル歩いて出てきたわ!」


って、主任が笑っていました。


それからの数日はあまり記憶がないんです。


毎日、歩いて1時間かけて職場に行き、

おにぎりを握って味噌汁を避難所に届ける。


そのシーンはよく覚えています。




夫の実家は神戸市。

夫はその当時、東京で暮らしていたので

電車が動いていない西宮以西を

線路を歩いて

実家に安否確認に向かったそうです。




わたしも神戸に支援に入りましたが

倒壊したビル、傾いたビルの景色が

当たり前になってしまって


怖さすら感じなくなってました。





忘れられないエピソードがあります。


わたしの友達はナースで、

当時、被害が大きかった地域の

脳神経外科の病院に勤めていました。


どこも病院はいっぱいで

倒壊した家屋から運び出された怪我人など

行き場のない人が

脳神経外科にもやってきて


ほんまに戦場やってん、、、


と友達は言います。


そのなかに

赤ちゃんを抱いたお母さんが

必死の形相で駆け込んできました。


倒壊した家屋にいた赤ちゃん。


一目みて「あ・・・もうあかん」


そうわかったそうですが


泣きながら「どうか診てください!」と

懇願するお母さんに


ドクターが

「わかった。待っててな」と

物が散乱した診察室に

赤ちゃんを運び、


丁寧に

息がなく、亡くなっていることを

確認してから


赤ちゃんの顔についた汚れをきれいに拭って

病院の白いシーツにくるみ直し、


「頑張ったけど・・力及ばずでした」


と診察室の外のお母さんに

手渡しました。


ナースの彼女は

泣き崩れるお母さんを抱きかかえ

ご親族に引き渡したそうです。


ありがとうございました、と

頭を下げて帰るお母さんとご親族。



「次々に来る怪我人の対応で

ゆっくり寄り添えなかったことが

今でもこころ残りだけど


あのときのドクターの

たった数分だけやけど

あの対応は、


あのパニックのなかで

輝いてた。


トリアージの大切さも

わかるけど


最期に我が子は大切にされたという

そのことを支えに

お母さんはこれからの人生も

生きていってほしい、という

その願いが

あの対応を生んだと思うと


心から尊敬したし


医療人として大切にしなあかんことやと

思ったんよねえ。。。」



寄り添うとは

こう言う事なんだな、と


わたしも学ばされました。



遺された人たちは

その後の人生を生きなきゃいけないんです。


大切なひとの最期が

どんな状況であったか、

ひととして尊厳をもって扱われたのか。


遺された人の心の中には

ずーっと記憶に残り続けます。



そこをやっぱり

どんなときも医療職や対人援助職は

特に

意識の中に置いておかないとなぁって

思います。





わたしは

寄り添う、と言う言葉を

安易に使う人ほど

ほんとの寄り添いをわかってない、と

保育士のときから感じていました。


今、東北の地震やさまざまな災害があり、

能登半島地震を見ても


いったい政治は

誰に寄り添ってるんや??


と憤りを禁じ得ません。



わたしはよく怒ってますけど笑い泣き


日本人は怒りの感情を

とてもネガティブに受け止めすぎ

だと思います。



怒りには私憤と公憤があります。


わたしはもっと

たくさんの人が本気で

明日は我が身だと危機感を持ったり、


今の状態に諦めないで

しっかり怒る公憤を持ってほしいな、と

思います。



朝から真面目モードでした!!




画像はすべてこちらから引用させていただきました