誰かさんは「せっかくイタリアに来たのに、イタリア人があまりいない・・・。」と嘆いていたが、そりゃ8月にミラノのような都市にやって来たら、130万人の人口の町で、残っている人は70万人くらい(2000年は40万人)空っぽになった町なんだから仕方がない。   今週に入り、続々イタリア人たちが帰って来た。休み明けの9月からは、100万人の通勤者が追加される。   さっそく町で働く人々を見るのは懐かしい。 涼しくなってもやはり夏だけあって、ミニスカートなどの露出系の、しかも俗に言う「イイオンナ」が歩いていると、ラテンの血が体内を流れているイタリア人らは、あちらでもこちらでも視線を向ける。   だからイタリア女性のファッションはセクシー系になりがちだ。彼らは単なる「オンナ好き」なだけではなく、かつてこれらの国々が、たいへんロマンチックだった時代があったわけで、そういう遺伝子や環境によるもので、単なる「スケベ」ではないようだ。

  ロマンティシズムは、文献によると日本語でロマン主義、英語のromanticism、ドイツ語 Romantikは、ヨーロッパの精神運動。ドイツに始まり、ドイツおいてもっとも力強く展開されたとなっている。
  内面性の重視、感情の尊重、想像性の開放といった特性であり、好まれる主題としては、「異国的なもの」「未知のもの」「隠れたもの」「はるかなるもの(特に、自分たちの文化の精神的な故郷、古代文化)」「神秘的なもの(言葉で語れないもの)」「夢と現実の混交」
  ロマン主義とは、古典主義の対概念としてとらえられるもので、主として18世紀末から19世紀にかけての運動であり、その影響はヨーロッパ全域に広まったそうだ。ドイツにとっての古代文化はギリシア、ローマであり、しかしながらドイツはローマ帝国の文明化しえなかった野蛮な地であり、ローマ帝国を破壊して中世を作った張本人でありながら、その古代を回顧し、しかも「ローマ」と言う言葉がその中にすでに入っているというイタリアから見ると逆輸入的観念である。
 そういう世界に憧れたグイドは、ラテン世界のことをよく研究し始めた。それは男性側から見ると「このようにしないといけないな」という甘い生活の手本のようなもので、女性側から見ると「こういうことをしてほしい」という会ってみたい人たちに位置づけられている世界で、その習慣で面白いものに「ピロポ(PIROPO)」と「セレナータ」がある。前者は、女性が通ったら、囃し立てるような言葉を浴びせるもので、スペインや南米のものは、女性に顔を向けて話しかけるようにやるが、イタリアではひとりごとをいっているようにやり、それでもみんなが聞こえるくらいの大声で、日本のナンパのように歩いている女性を立ち止まらせ口説くようなものでなく、ラテン系の口説きはもっと自然なものである。 ただし、このピロポにしてもイタリア人の投げかける言葉にしても、女性として悪い気持ちもしないが、イタリア女性は、ほとんど反応を見せない。こういう習慣がない外国人は、話しかけられたらそれに答えるので、タナボタ式に落ちる。  街中にセクシー系の「イイオンナ」が通った時は、結構マジメ系のイタリア人でさえ、「大事な話や仕事などの手を止めてまで、その女性を見る」。 通り過ぎたあと何もなかったように日常に帰る。

ピロポは、スペイン語でイタリアでは特にこれに当てはまることばはない。

「ピロポというのは、ロマンチックな口説き文句、みたいなもの。」(ある女性の説明)

「ピロポっていうのは、女の子の注目を引くような、粋な一言、とでもいうのか。」(ある男性の説明)


セレナータ

日本で使われるセレナーデは独語Serenadeで、英語はセレネイドserenadeフランス語ならセレナードsérénadeは、もともと恋人や女性を称えるために演奏される楽曲、あるいはそのような情景のことを指して使う。
  その他の称賛すべき人物のために、夕方しばしば屋外で演奏される音楽を指す。このような意味によるセレナーデは、中世もしくはルネサンスにさかのぼりイタリア語のセレナータserenataが、バロック時代から、そのまま音楽の用語で使われることになる。日本語では、「小夜曲(さよきょく)」と訳されていたが、すでに死語となっている。音楽用語(オペラのアリアに見受けられる。たとえばモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』、シューベルトやリヒャルト・シュトラウスの歌曲に、「セレナーデ」、恋人や女性に歌って聞かせる)としてカタカナ名の方が使われることと、その習慣さえもなくなってきているからだろう。
セレナータが野外の音楽だったので、ギターやリュートという携行可能な楽器小部屋ではうるさすぎて使い物にならない楽器でも利用された。
 イタリアで、このセレナータの演奏のバイトをしたという人にはじめて出会ったのが最近で、彼はナポリ出身で、すでに70歳を越えた人である。

 時代が変わったのは確かだが、こういう本場の国で衰退したことを、「逆もまた真なり」で、例えば日本で復活させると言うのはどうか。