夏が来ると本を読みたくなる。 


ミラノでも各所で、野外書店テントが出没するわけで、読書したくなるシーズンなのだろう。 



グイド18歳の修行時代。夏、大阪高槻のラウンジパブで住み込んでバイトする。 夕方女の子が男性客にサービスする時間が夜11時に終わると、サパータイムとなり、女性コンパニオンが帰ると、グイドたちがサービスをする時間になり、女性客がやってくる。 

閉店は朝の4時頃。 直にお客さんと向かい合う仕事はすごくたいへんなのを学び、かなり疲れてきた頃、気がつけば本屋で、ある本を買って夢中で読んでいたのが「企画力」と言う本で、若い頃に読んだので、大阪の環境と一緒に、その考え方が無意識のうちに身についていたと思う。 グイドは16歳のバイトの時に高槻の女の子と出会い、それ以来、この町と阪急沿線が妙に気に入っていた。 

その頃大阪の町にも興味を持ったが、大阪そのものを知るほどに色褪せて見えてしまったのに、沿線沿線の町や大阪では梅田の阪急の建物があるあたりは、何度っても飽きなかった。 


またまた本屋で偶然であったのは、阪急グループの創始者小林一三についての本だった。 彼は明治6年(1873)に山梨の韮崎で生まれ、慶応義塾に学んだあと、三井銀行に入社し、自ら志願して大阪支店に赴任した。 どちらが可と言うと文学が好きな彼は、元禄文学に憧れたからだそうだ。 

当時設立されたばかりのみのう箕面有馬電鉄の専務取締に就任したが、この電車は田んぼの真ん中を走るもので、都市と都市をつなぐ阪神電鉄よりもずっと遅れていたのだ。 

現在の阪神間の町では、阪急沿線が高級だとされているが、それまで小林の次々にアイデアを出して、沿線の乗客を作っていった。 「都市があるから電車を引く」のではなく「電車によって都市をつくる」のだ。 それゆえに文化のかおりが高い。 

宝塚までの沿線に建売住宅を建て、阪急不動産は、住宅ローンによって、住宅購入がずっと楽なようにした。 

終点の宝塚に温泉や歌劇団をつくった。 それから神戸線や京都線をつくり、その周辺の再開発に貢献したのだ。 

宝塚歌劇団とは、つまりイタリアのオペラをヒントにしたものだが、それによって西洋への窓口を作った。 日本が世界の縮図なら新天地東京はアメリカである。 

小林は、なぜこの事業を東京で展開せず、大阪を選んだのか? それは、新しいものに挑戦するパイオニア精神がある商人の町だからだ。 小林自身大阪人ではなく、大阪を選んだのだ。 企画力の本によると、それぞれの人には、それの個性にあった企画の方法があり、企画とは計画とは違い、ゼロから何かを生み出す神がかりな技である。 グイドは、そんなところでイタリアを日本に置き換えた。 

機能するのがたいへんなイタリアだが、人を育てるのがうまい。 イタリアで鍛えられたら世界のどこでも物事がよ~く見えてくる。 グイドはイタリアを選んだ。デザイナーや建築家など創造する環境のイタリアで修行しようと思ったからだ。