2月中旬にコロンの悪性腫瘍が再発し、私は悶々としながら働いていた。
1日3時間~6時間のパートだが、働いている間に何かあったら…。
私は経理。3月決算。

無責任だと罵られようがどーでも良いわ。と開き直り、3月3日(土)から私はコロンの傍に居る事にした。

週明け、家族を送り出した後『コロちゃん行ってきます。良い子にしててね。』と言わない私を、コロンが不思議そうに見てるように思えた。
『コロちゃん、母さんずっと一緒に居るからね。ずっと一緒やよ。』私は声をかけた。

それから丁度2週間…食欲が無くなり、週1回だった通院も週3日になり、注射・点滴が無いと大好きなバナナもブロッコリーもキャベツもリンゴもチモシーもペレットも何も食べられなくなった。

週3で注射を打たなければならない程痛いなら、手術をして痛みの元を取り除いてやって下さい。私は、赤ちゃんの頃からコロンを診て下さっていた獣医さんにお願いした。

手術は成功。これからも大好きなコロンと一緒に居られる。はずだった。

術後コロンが口にしたのは私が摺り下ろしたリンゴ果汁と水とポカリスエット。
おかしい…。
獣医さんに連絡をし、翌日も受診することにした。

翌朝。私の腕の中でコロンは逝った。

3月17日(土)いつも通り5時過ぎに起き、肌寒いのでコロンの朝ごはんは部屋が暖まってからにしようと、ベッドにコロンを残し『〇〇(次男)のお弁当作るから、お部屋温々なるまで待っててね。』

コロンは布団の中で私を見ていた。

神棚と両親の仏壇にお供えをし、暖かい日ならコロンのご飯を用意してリビングに連れてくるのだが、まだ冷え冷えとしていたのでお弁当作りに取りかかった。

6時過ぎ『お待たせコロちゃん。』
『寒かったん?お布団の中に潜り込んじゃって。』
『いや~腹巻き(術後の包帯代わり)嫌やったん。』
コロンの足下にあった腹巻きをコロンに履かせた時、コロンの足がパタンと力無く落ちた気がした。

もう一度、足を少し持ち上げて手を離してみた。

パタン。と落ちた。

私はコロンを毛布で包み抱き上げ、子供達の部屋のドアを明け
『〇〇(長男)❗〇〇(次男)❗コロンが動けへん。なぁ❗コロンが動けへんねん。』

2人の部屋は同時に見渡せる。

『え?コロン❗』

子供達が声を上げ飛び起きた。
主人は仕事で東京。頼れるのは子供達だけ。

その時、私の腕に温かい物が流れてきた。コロンのオシッコだった。

コロンが逝った。

その時私は、そう思った。

私に抱かれ。子供達の声を聞き。コロンは逝った。

動物との生活が初めてだった為どうして良いか分からず、早朝だが獣医さんに電話をした。当然誰も出ない。

3人で泣いた。

そして、次男には学校へ行くようにと私は言った。長男は怒った。
『〇〇も悲しんでるのに、何で学校へ行かすんよ。お母さん酷いわ。何やねんそれ。』

『コロンは〇〇のお弁当が出来るの待ってくれてたやん。それを無駄にするの?作らなくて良かったなら、もっと早くコロンの傍に行けたやん。コロンは〇〇がお弁当持って学校へ行けるようにしてくれたんやん。コロンの気持ちを無駄にしたくないねん。』

私は何故かそれが正解だと思った。

主人には電話で伝えた。彼は泣き声で『すぐ大阪に戻る』と言った。

今日で3か月。私はまだ苦しい気持ちが癒やされてはいない。
それでも、先月下旬から新しい職場で働き始めている。

計算、入力、帳票、新しい環境で目まぐるしく過ごし、泣く時間を減らすことが出来るようになった。

コロンが逝ってから、命について考える機会が増えた。多頭飼い崩壊で心身に傷を負った動物達のブログは特に気になる。

現実の私は、近所で可哀想な飼い方をされている犬1匹救ってあげられていない。

スキンヘッドで口髭を蓄えたの飼い主と直接対峙する勇気が無く、行政や動物愛護団体や協会の方々に相談しただけ。

狭いガレージで車の排気ガスを直接受け、糞尿を10日以上放置されハエが舞い、汚れた毛だらけの水しか無いような状態で繋がれた犬。せめて、暑い日や寒い日は玄関に入れてあげて欲しいと願っている。

サボンドゥフルール(石鹸のお花)の素晴らしさを紹介する為に始めたブログだったのに、ウサギの事ばかり。

サボンドゥフルール協会の方々は『あの人は大丈夫なのか?』と、さぞかし戸惑っていらっしゃる事だろう。

申し訳ありません。まだ大丈夫では無いので、しばしお待ちを。