
漱石は明治元年の1年前、慶応3年の生まれでこの年、
尾崎紅葉、幸田露伴、正岡子規も生まれている。
現在の東京都新宿区牛込喜久井町1番地という誕生地「喜久井」とは
名主であった夏目家の「菊」を「井」で囲んだ家紋菊井紋に由来しているという。
漱石が34歳の9月には文部省の命によりイギリス留学に向け横浜を出帆。
この年明治33年は西暦1900年、19世紀最後の年であった。
漱石は大正5年50歳で亡くなっている。
●視点「三四郎にみる人物描写」(以下原文)
「----あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。
今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。
あれより他に自慢するものは何もない。
所が其の富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。
我々が拵えたものじゃない」と云って又にやにや笑っている。
三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いも寄らなかった。
どうも日本人じゃない様な気がする。
「然し是からは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。
すると、かの男は、すましたもので、
「亡びるね」といった。-----熊本でこんなことを口にすれば、すぐ殴られる。
悪くすると国賊取扱いにされる。
●この男が後に三四郎と再会したときの描写。
「君、不二山を翻訳してみたことがありますか」と意外な質問を放つ。
「自然を翻訳すると、みんな人間に化けて仕舞うから面白い。
崇高だとか、偉大だとか、雄壮だとか」
三四郎は翻訳の意味を了した。
「みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳できない輩(もの)には、
自然が毫(ごう)も人格上の感化を与えていない」
三四郎はまだあとが有るかと思って、黙って聞いていた。