♪妻「りく」のストレス供養 | ◆VISTAの発見◆

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♪いつかはきっと セレンディピティ

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主人「大石よしたか」(43歳)は仕事もなく、祇園で遊興三昧。ウチには何日も帰らず、妻と三人の子はホッタラカシ。

妻「りく」は10歳年下で33歳。夫が無収入なのに夜な夜な放蕩で浪費していたら、やっぱり腹がたつ。

主人は何の説明もなく、言い訳もない。
その態度には怒り心頭。いつキレてもおかしくない。

いくら遊び好きの主人でも限度というものがあるじゃないか!

数ヶ月後、「りく」は子づれで豊岡の実家に帰らされた。主人は長男を連れて東京へ行ってしまった。
「りく」は実家に帰った4ヶ月後、第4子三男大三郎が産まれた。

なんというこっちゃ!!「りく」の身にもなってチョーダイ。

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明日はお盆の14日。

3月14日に亡くなった主君の仇討ち本懐を1年9ヶ月後の12月14日に遂げ、天下のご政道にクレームをつけた赤穂藩の家老、大石良雄の奥方「りく」さんのストレスはいかばかりであったか、日本中の誰も話題にしなかった。「良妻賢母」の一言でかたづけています。

内蔵助は本当に妻にも本心を言わなかったのでしょうか?
いまどきの青年なら必死に動機づけすることでしょうね。

「りく」についての史実を「表側」から説明し、 お盆 にあたり慰霊申し上げましょう。
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 りくは寛文9年(1669)に豊岡藩京極家の筆頭家老石束(いしづか)源五右衛門毎公(つねとも)の長女として生まれました。りくは18歳になって、赤穂・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の家臣、首席家老・大石内蔵助良雄(くらのすけよしたか)に嫁ぎます。良雄はこの時28歳。大石家は、近江の国(滋賀県)栗太郡(くりたぐん)、宇治川沿いの大石村より出て浅野家に仕え、代々家老をつとめ1500石を賜っていました。元禄元年(1688)長男の主税良金(ちからよしかね)が生まれ、3年には長女くう、4年には次男吉之進(きちのしん)(のちに吉千代)が生まれました。
●赤穂浪士の討ち入りのあと妻は…
 元禄14年(1701)3月14日、江戸城内、松之廊下で主君浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)を腰の小刀で切り付けたのです。浅野内匠頭長矩はただちに切腹。浅野家は断絶、赤穂城は没収となりました。
 大石内蔵助は開城準備や残務処理をし、城を明け渡したあと、一家は京都の山科へ移り住みました。そこで討ち入りの意思を隠し、世間をあざむきながら、じっと時を待ちました。
 元禄15年(1702)4月、大石内蔵助は長男・主税を残して、りくと3人の子供たちを豊岡へ返しました。7月には三男・大石大三郎が生まれました。
同年12月14日、大石内蔵助を頭に赤穂浪士たちが吉良上野介邸へ討ち入りました。翌年2月4日、義士一同に切腹を命ぜられました。
りくは次女・るりや大三郎と共に豊岡市日撫の隠居所・眞修院(しんしゅういん)に移りました。夫の切腹後は再婚せず、髪を剃り遺児の養育に専念し、良妻賢母で武士の妻の手本として称えられました。
正徳3年(1713)、大三郎が広島藩浅野家に仕官し1500石を賜り、りくも広島で暮らしました。元文元年(1736)11月19日、68歳の生涯を広島でとじました。(資料:豊岡市)