Sさんは、社会人になって大阪・心斎橋の大きな宝飾店に勤めました。それはパリッとした姿になって、こどものころ連れ立って、川へ降りては泳ぎ、魚を捕まえた時のイメージは全然ありませんでした。運動能力が乏しく、小さな川なのに丸太の橋から飛び込むのも苦手、泳ぎも十分にはできない、魚を捕まえるなどとても、というわたしに、Sさんは、教えるというのではなくいつもそばについていてくれました。おかげで、橋からそのままズボンと飛び降りたり、何泳ぎと言えない泳ぎをしたりできるようになりました。それでも魚はやはり手に負えず、いつも帰りに分けてくれました。大阪に出てきたSさんとよく出会っていましたが、案内はあちこちを知りつくしたSさんでした。熊本に移られてもう長くなったSさん、年賀状でお互いの健康を確かめ合ってはいますが、会いたいですね。このブログを見てくださいね。
わたしの持っている疎開先でのたった1枚の写真は、セピアになった小学3年生のときのクラス写真です。Iさんは、ひときわ目立つ姿で受持ちの先生のすぐ右に座っています。この写真を見るたびに、はきはきした態度とこどもばなれした達筆とともに、キラキラ輝いていたIさんの笑顔が思い出されます。しかし、わたしが疎開先から大阪へ戻って以来、会ったこともなければ便りのやり取りもしていませんので、どこでどのようにされていたのかまったく知りませんでした。それが驚くべきことに、わたしの住まいの最寄駅から二つ先の桜の美しい駅の近くに住んでおられたのです。その間、一口では言えないようなことが次々と起こり、わたしが大切にしている1枚の写真もなくなってしまったとのことでした。長い年月を超えて、木造校舎の前で一緒に写真を撮ったIさんが今、呼べば答えるほどの距離にいるとは-。
Kさんはよく知られた俳人です。同人誌の編集や文学の講義に忙しく、ご自分の俳諧集も出しておられますが、こどものころは柿をもいだ間柄でした。和歌山といえばミカンが有名ですが、海から深く入り込んだ海草郡では柿です。野山を駆け回って、たわわに実る柿をもぎ、野イチゴを摘み、いたどりをしゃぶり、麦畑に潜り込み、牛車に乗り、馬に見ほれる、そんな日々を一緒に過ごしたKさんが、阪神・淡路大震災の直後、突然わたしの家を訪ねてくださいました。親しくしていただいたお母様が神戸で被災されたとのことでした。IさんのことはKさんから教えられたのです。それを機に、疎開先に案内していただいて、お伽の国の建物のように移築された小学校を見ることができました。いま、和歌山とはKさんのおかげで太いつながりが戻り、その分、豪雨のニュースなどには居ても立ってもおられなくなりました。
