ブログネタ:今、世界を何とかしなくてはいけないとしたら、何を解決すべき?
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こんな実験がありました。
とある子どもの集団で、だいたいの子どもは頑張って掃除するけど、数割の子どもはどうしてもちゃんとできない。
そこでその数割の子を除いて同じように掃除をさせると、またその中の数割の子どもがサボってしまう…。
このパーセンテージがほぼ均一だったって話を聞いたんだけど、この実験全体を含めてソースは確認できませんでした。今度ちゃんと調べてみなくちゃ。
でもこれ、「社会的手抜き
」と関連してますよね。
Wikiで確認した定義によると、「集団で共同作業を行う時に一人当たりの課題遂行量が人数の増加に伴って低下する現象」とされているけど、要は一人あたりの課題遂行量が均一じゃないってこと。
これをなくすのは、ちょっと至難の業だと思います。
まあ、それは置いておいて。
世界を何とかするってのは、人間をコントロールすること。
でも、他人はもちろんのこと、自分のコントロールだって完璧にはできません。
人の行動をコントロールする映画、ありましたよね。
たとえばここらへん。
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ゼロトレランスがいきすぎると、個人にとんでもないゆがみが生じるか、暴動が起きるかどっちかだと思うのね。
「正しい=せねばならない」の図式は成り立たないというか。
最近非行がらみのことを考える機会が多いんだけど、虞犯少年くらいの子って、生育史を振り返ってみると「せねばならない」にとらわれて心身に無理が生じてきちゃったんじゃないかと思うことしばしば。
川口市の中3の女の子が父親を刺殺してしまった事件も、「些細なことで」っていう反応が多いのかもしれないけど、ゼロトレランスの風潮の中ではごく普通に起こりえることだと思います。
「勉強ができない自分が許せない」し、「煩わしい両親も許せない」し、「夢の中の父の行動も許せない」っていう思考回路が自動的に働いて、たまたますべての「許せない」が父に向かってしまったんじゃないかしら?
そういえば、この間読んでた本にも、非行(犯罪)が行われる背景には「偶然」があるって書いてあったっけ。(昨日の記事 参照のこと。)
こういう危なっかしさは、何年か前から中学生にかかわりながら感じてきたことなんだなぁ。
だからといって、やったことが正当化はできないけど。
今回のブログネタのテーマが壮大すぎて考える材料が大量に出てきちゃいますが、何が言いたいのかというと「良くないことは簡単に是正できない」から、「些細なことであるうちに許す」ように心がけること。
(「許す」とか・・・キリスト教っぽい?)
解決なんて、そんな簡単にできっこありません。
できると思ってたら、福祉の仕事なんてできません。
特にケースで子どもにかかわってたりすると、その子がサポートしてくれる人の手を離れる将来の見通しまで考えなきゃならないので、瞬間的に抱えている問題が深刻かつ環境要因だった場合はほんとうに打つ手がなくて苦しみます。
(不謹慎だけど、サポートを続ける中で援助の終結が人生の終結と一致しているような高齢分野がうらやましく思います。)
と、だんだん方向がそれて長くなりそうなので、ここらへんでおしまいにしたいと思います。