僕たちの隣人に、「全くなかったことを、まるであったかのように語る人たち」がいます。


歴史の証言者を殴り殺したり、世界中で息を吐くように嘘を吐く大統領や主席がいます。





彼らは本当に、まじめに歴史認識を「認識」して生きているのでしょうか??





オラドゥール・シュル・グラヌという村について書きます。





フランスに興味を持ったのは、小学校6年生の国語の授業でした。


アルフォンス・ドーデの「最後の授業」です。





遅刻したフランツ少年(名前からしてフランス語じゃない!)は、てっきりアメル先生に怒られると思うのですが、様子が違います。





「私がここでフランス語の授業をするのは、これが最後です。普仏戦争でフランスが負けたため、アルザスはプロイセン領になりドイツ語しか教えてはいけないことになりました。これが私のフランス語の最後の授業です」





そして言います。


「フランス語は世界で一番美しく、一番明晰な言語です。そして、ある民族が奴隷となっても、その国語を保っている限り、牢獄の鍵を握っているようなものなのです」





生徒も最後の授業のために集まっていた大人たちも耳を傾けます。


授業の終わりの鐘が鳴ります。





先生は顔面蒼白となり、黒板に大きく文字を書いて「最後の授業」を終えます。





Vive la France!





重要な蛇足ですが、元々アルザス・ロレーヌ地方で話されていたのは「フランス語」ではなく、「ドイツ語」の方言でした。


最近はFrance Blue Elsassでラジオ放送の一部分をアルザス語で行っており、日本でもきくことができます。





Buschur! (ブシュール) Bonjour! これはフランス語


Mersi (メルシ) Merci


Orwuar!(オルヴァール) Au revoire!





Guata Morja! (ギュアタ モルヤ) Guten Morgen! これはドイツ語


Guat Nacht! (ギュアト ナハト) Guten Nacht


Ich v'rsteh nit (イヒ ファルシュテー ニート) Ich verstehe nicht....





とまれ、フランスやフランス語に興味を持ったのはその作品のお陰でした。





「言葉を守る」といいながら実は言語を奪っていた(今も奪っている)のはフランス人だったという「オチ」に気づいたのは後になってからでした。





それが「縁」でフランスに関するいろんな本を読みました。





ある本のたった1行に「悲劇の村オラドゥール」を見つけました。





ナチス・ドイツが行ったホロコーストは知っていたのですが、このホロコーストの対象が、さらに





・スラブ民族


・同性愛者


・ロマ(昔はジプシーと呼ばれた)


・身体・精神障害者


・共産主義者などの政治犯


・ユダヤ人などをかくまったドイツ人や外国人





と多岐にわたっていたこともよく知られています。





でも、チェコのリディツェ、レジャーキやフランスのオラドゥール・シュル・グラヌは、日本では学校でも教えていないのではないでしょうか。





リディツェ村事件は、1942年当時チェコの副総督だったラインハルト・ハイドリヒが暗殺された報復としてヒトラーに命令され行われました。





何の根拠もなくこの村がパルチザン(対独レジスタンス)がかくまわれている村だとして選んだんです。





1942年6月10日


ドイツ軍保安部隊が村に侵入し、すべての家々から人々を追い出し、家具など貴重品を奪います。そして残った家々はすべて焼き尽くされた後、更地にされました。





約180人の女性がラーフェンスブルック強制収容所へ送られました。


子どもは約100人がヘウムノ強制収容所へ送られました。


男性は全員が射殺されました。


全村民の約500名が犠牲に。(この事件は映像が残されている)





1942年6月24日


武装したドイツ軍兵士がレジャーキ村を包囲、全住民を連行し村に砲火。レジャーキ村ではレジスタンスのリーダーが所有していたラジオ送信機を発見したため同じく報復の対象にされました。


33人すべての村民が射殺。





1944年6月10日土曜日





ノルマンディ上陸作戦を受けて移動してきたドイツ軍がオラドゥールを包囲。








オラドゥールにマキ(対独レジスタンス)がかくまわれているという「密告」があったとか、近くにあるオラドゥール・シュル・ベイユと間違えられたとかいろんな説があります。





マキの秘密の武器・弾薬庫があるという情報を得たドイツ軍武装親衛隊SSが侵入してきました。





「例外・遅滞なく」全員が村にある広場(Champ de Foire)に身分証を持って集まるよう命じます。










Champ de Foire (この角度からの事件前の画像が存在します)





SS(ドイツ武装親衛隊)は各家に侵入し、銃を持って、病人も含みすべての村民を広場に追い立てます。





村にあった学校、男子校、女子校、アルザス・ロレーヌ地方からの避難者のための「ロレーヌ学校」の生徒たちすべてが、ドイツ兵に強制された先生たちと共に広場に向かいました。











モゼール県からの避難者でロレーヌ学校からの唯一の生存者ロジェ・ゴッドフラン


2001年2月10日64歳で逝去







小学校の跡





ひとりひとり、またはグループでSS監視の下Champ de Foire広場に徐々に集まりました。


従わなかった人間は即時虐殺されました。





4人のスナイパーが狙う中、「女性・子ども」「男性」の2つのグループに選別されます。





男性は、村内にある6つの納屋に分けて連行されます。


すでにそこには機関銃が待ち構えていました。





生存者の話によれば、まず逃げられないように脚を撃たれ、まだ生きている人たちの上に藁の束が放り込まれ、火が放たれたといいます。










村のすべての女性と子どもは、広場から教会に連行され閉じ込められます。










そして内部には大きな箱が置かれそこからは床にひもがつながっていました。


入り口で若い兵士がそのひもに点火。





箱からは有毒ガスが発生しましたが、誤って爆発してしまいます。


黒煙が立ち上り窒息しそうになった人たちは、空気を求めて逃げようとするのですが、そこへ一斉射撃が始まりました。





わら、芝の束、いすなどごちゃごちゃにものが、タイルの上に倒れている彼女たちの上に投げ込まれ、火がかけられました。


まだ生きている人がいました。
















内部は教会の鐘が溶けるほどの熱気だったのです。

1.2mもの、人々の残骸が発見されました。











マルゲリット・ルファンシュ夫人


ろうそくをともすためのはしごが彼女を救いました。彼女はステンドグラスが割れた窓から3mを飛び降り、SS隊員に射撃されましたが翌日の17時になって初めて救出されました。







しかし唯一の教会からの生存者として、その惨状を証言しました。





その他の犠牲者たちもいます。












Champ de Foire 車はプジョー202だそうです。。。たまたま戻った車から降ろされた医師も犠牲になりました。




SS隊員たちは再び村中の家々をまわり、最初見つからなかった人たち、特に障害などで広場へ出頭できなかった人たちを殺害しました。









ここを路面電車が走っていました。メインストリートでした。

































このようにして救援隊はたくさんの部屋で黒焦げになったお年寄りの遺体を見つけることになります。




Forces françaises de l'intérieur(レジスタンスが国内で編成した軍隊)から送り込まれた兵士は、パン屋の釜の中に5人の炭化した遺体を発見しました。両親と3人の子どもたちでした。




農家の井戸におびただしい遺体が見つかりましたが、あまりに腐敗がひどく、身元不明となりそのまま放置されました。





 




642人がこの日虐殺されたのです。




そして、戦後オラドゥールは村全体をそのまま残すことになりました。









鍋・ストーブもそのまま









ガレージの車も焼かれたあのときのまま









郵便局の跡。リモージュからの路面電車がここまで来ていました。









ミシンも









ここにあった納屋でも悲劇が。









村の墓地には今も花が絶えません。









1936-1939年のスペイン内戦から逃れてきた人たちも犠牲に





墓地の奥に記念碑が建っていて、地下に遺品が展示されています。




当時のまま時が止まっているようでした。

村の横には新しいオラドゥール・シュル・グラヌ村が作られました。















新しい教会は元の村を見下ろす場所に建てられています。






すべての犠牲者642名の名前が刻まれた碑




1999年に記念館が併設され、記念館を通って村に入ります。

最初に行ったときは僕以外の観光客はいなくて、あらゆる音、雰囲気、におい、目に入るものが恐ろしく感じたものです。




今ではドイツの学生やヨーロッパ中からの観光客が訪れています。




DVDで、ドイツの高校生がガイドをしてくれた生存者に「まだ僕たちを許していませんか?」

と尋ねます。




日本の高校生が南京大虐殺記念館に修学旅行で連れて行かれると間違いなく謝罪して帰るのとはかなり異なった意外な返事が。




「許す?起こったことは許せない。でも、君たちに責任があるわけじゃないよ。」




「ねつ造」と言うと「ねつ造じゃない」

謝ってお金を出しても「反省が足りない。賠償責任を果たせ」

「なかった」と言うと「極右化、軍国主義肯定、修正主義」




証拠があるなら、生き証人がいるならなんで検証を邪魔する必要があるのか。




参考:Wikipedia: version française

Oradour 10 juin 1944: Sarah Farmer (2008)

Oradour-sur-Glane, l'éveil de la mémoire: René Gilabert (2008)

Le Massacre d'ORADEUR Sur-GLANE: Edit. Front National

Der letzte Tag von Oradour: Lea Rosh /Günther Schwarberg

Oradour sur Glane -Vision d'Épouvante: Guy Panchou /Dr. Pierre Masfrand(1970)

Oradour Le verdict final: Douglas W.Hawes (2009) tradui de l'Anglais

Oradour-Sur-Glane The Tragedy Hour by hour: Robert Hébras (survivor from Laudy's Barn)(1994)

Cahiers de jeunesse de Denise Bardet - Institurice à Oradeur- sur-Glane Le 10 juin 1944:

Jean Bardet (2004)

Il y a 60 ans...Oradour-sur-Glane: Catherine Ballay (2004)

Oradour/Glane Notre Village assassiné: André Desourteaux, Robert Hébras (1998)

Comprendre Oradour -centre de la mémoire d'Oradour: Le centre de la mémoire d'Oradour Haute-Vienne Conseil Géneral (2000)







アクセスはパリ・オーステルリッツ駅からリモージュ・ベネディクタン駅





現地ツアーがあればツアーで行った方がいいかもです。

リモージュ駅とオラドゥール村直通のバス(リモージュ市街直通が駅最寄りを通りますが本数が日に数本)はないので、車がないとかなり不便です。




駐車場はあります。















1999年に併設した記念館が完成し、限定公開になりました。










開館は毎日9:00から(季節によって閉館時間が変わる)

記念館を通って村に入ります。