
ついベルリンに来てしまいました。FlightGearの世界ですが、せっかくですので散策してみました。
まずは、なんと緑と湖が多いことか、ということでした。新鮮な驚きでした。
まずは、なんと緑と湖が多いことか、ということでした。新鮮な驚きでした。
国会議事堂
画像は、連邦議会、ライヒスターク(旧国会)の議事堂の3Dモデルです。
ナチスが、国会放火事件(1933年2月27日)をでっち上げ、競り合っていた共産党の仕業にして非合法化し、一党独裁体制を構築していったことで有名です。後にコミンテルン議長となり反ファシズム闘争に大きな影響を及ぼしたゲオルギー・デミトロフも犯人の一人として逮捕されましたが、裁判で無罪に。検察官役を演じたゲーリングは、ディミトロフに言い負かされ、「これじゃ裁かれているのは、われわれだ」と嘆いたとか。
第2次大戦ではベルリン陥落時の国会議事堂の屋根にソ連軍兵士が赤旗を掲げる写真がよく知られていますから、それまでに議事堂は修復されたものとばかり思っていましたが、一党独裁のナチスに国会が必要なわけないですよね。本格的に再建されるのは、ドイツ再統一後の1999年まで待たねばならなかったようです。
ブランデンブルグ門
ドイツ再統一と言えば、ご存知のようにブランデンブルグ門が象徴といえます。本来国会議事堂の間近になくてはならないのですが、3Dオブジェクトととしては存在しません。分断の歴史を反映した複雑な国民感情があるのでしょうか?
実際の門の上には、4頭立馬車に乗る勝利の女神ビクトリアの像があります。かつてポレオンによるベルリン征服時にナポレオンが門で行進、像はフランスに持ち去られ、逆にナポレオンが負け、プロイセン軍がパリを占領した際に持ち帰られ、門の前はパリ広場と改名されました。まさに門は戦勝と凱旋のシンボルとなったわけですが、もともとのはじまりは、城郭都市だったベルリンの市街地の拡大のため、かわって設けられた関税壁の門の一つだった、ことを今回始めて知りました。
ベルリン大空輸とテンペルホーフ空港
すでにベルリンの壁が崩壊して久しいですが、壁が築かれるよりも以前の1948年6月、第2次大戦後の東西冷戦の緊張のたかまる中で、ソ連が、米英仏の管理下にある西ベルリンを封鎖する事件が起こりました。ベルリンそのものはソ連支配下のドイツ東部に位置しましたから、西ベルリンは陸の孤島となったのです。200万にものぼる西ベルリン市民に必要な大量の食料品や燃料は、唯一残された空路を使った西側諸国からの空前絶後の空輸作戦で運ばれました。こんな作戦が成功するもんなんですね。結果的に、ベルリン市民に米英との連対感を高めることとなり、封鎖は翌年9月30日に解かれました。
総飛行回数は278,228回、空輸物資量は2,326,406 t。作戦中の事故でなくなった方は合計101人だったそうです(Wikipedia)。なお、主力になったのはC-54輸送機。
このベルリン大空輸作戦の舞台となり記念碑のあるテンペルホーフ空港もすでに閉鎖になっており、また作戦のために急遽建設され現在メインの国際空港となっているテーゲル空港も、ベルリン・ブランデンブルク国際空港の開港とともに閉鎖の予定です。
このベルリン大空輸作戦の舞台となり記念碑のあるテンペルホーフ空港もすでに閉鎖になっており、また作戦のために急遽建設され現在メインの国際空港となっているテーゲル空港も、ベルリン・ブランデンブルク国際空港の開港とともに閉鎖の予定です。
旧東独の人権抑圧の歴史的シンボルとして一部残されていた壁が、近々高級マンションの建設のため取り壊されようとしていて、今住民が連日抗議行動しているそうです。