日本の良き高度成長期が瓦解して、
成果主義の名の下に一億中流と言われた多くの一般国民は流浪の民となった。
生活水準を守るための身を削る戦いの中で、
日本人は大事に培ってきたモラルを忘れたか。
顔の見えないsnsはどんなに権威ある立場の人であろうと、団体であろうと
非難することを恐れぬ百鬼の渦となった。
大方漏れずに、あの先生はどうの、と文句を言う時にある比較対象を用いて蔑む。
己の目を信じて、真理である絶対的価値観を持てずに
誰に比較して誰は劣っているという相対的な価値観でしかものを見れないのであれば
己も相対的に判断される一つの材料にすぎぬことを自覚した方がいいだろう。
人をとやかく言う前に
あなたも誰かに対して劣っていますよ、と言われる対象であることを認識した方がいい。
ことさらアーティストというのはしがらみを嫌う自由な人種が多いためか
己の考えが一番と主張し、あちこちで小さな衝突を繰り返す。
好きにやればいい。と思うが、身内を汚すことに不感症になっているのではと思うことがある。
自分の主張、自分を大切にするのは結構なことだが、
それはつまり、自分の周囲の環境を含めて自分と思うところから始めなくてはいけない。
これはたとえ話になるだろうか。
自分を先生と呼ぶようにと弟子に伝えている先生がいる。
それをわざわざ口にしなくてはいけないのは残念に思えるが
弟子が自分の師を「先生」と尊ぶことは正しいことだと思っている。
師は己の鏡、己は師の鏡なのだから、
汚れた言の葉で師を貶めれば、すなわち己も汚れることになる。
師を尊べば、自分もいずれ尊ばれる人になる。
美術団体も然り。
出展した団体を尊び、絆を深くしていけば、縁は円く深く広がってゆき、
いずれ己も団体を超えて尊ばれる人になれるだろう。
自分の腕試しにあちこちに挑戦するのは結構なことだが、
あちらの美術団体、こちらの団体と、道場破りの様は、若いうちなら許されるかもしれない。
狭い世界、弁えのない話はすぐに伝わってゆく。
主張するだけがアーティストではない。
人をつなぐこと、心をつなぐこと、時間をつなぐこと。
今を生きるアーティストには物事を円くつなぎながら進めていく政治力も必要ではないだろうか。
自分の周囲の環境を含めて、自分だから。
主張も大切だが、大きな視野を持って自重して、
己の環境をも大切に育んでいきたいと思う。
