赤ちゃんは、身近にいる人間のまねをすることで
ことばをおぼえ、環境に順応して生きていく術をまなぶ。
子どもは、幼稚園・保育園や学校という集団の場で
お友達や先生、大人たちの行動をなぞってみることで
社会に適応する力を身につけながら、
誰とも同じではないオリジナルな自分自身の存在を知る。
芸術家は古典美術を模写することで、
技法や色づかいなど多くのことを学ぶ。
芸術家にとってのそれは
決して独創性の妨げになるものではなく
偉人の制作過程を追体験することによって
自分のオリジナリティを見つめ直すものとなる。
模写をとおして己を知り、己の想像力の糧とするのだ。
つまり『まね』は、
己のオリジナリティを再発見・再構築する過程なのだ。
だから『まね』という行為が一概に悪いとは思わない。
が、
それをそのまま第三者に発信するとなると、話は変わってくる。
『模写』を本物と偽れば、『贋作』となるように
『まね』と『発信』の間には、
『咀嚼してオリジナティのあるものに再構築する』
という作業が不可欠だ。
論文であろうと、ブログであろうと、
音楽や美術などの芸術作品であろうと、
いい大人、社会人が、鵜呑み、受け売りではまずいのだ。
『まね』をあたかも自分のオリジナルのように発信するのは
倫理観に欠ける貧しい行為だ。
しかし、この倫理観というものの底辺が
昨今は揺らいでいるように感じる。
いい文章、いい写真や絵を見つければ、
さくっとコピペして、わずかに手を加え、自分のもののように発信する。
こういった不適切な行為に罪悪感を感じている人は
残念だが、思うより少ないのかもしれない。
倫理観は押しつけるものではない。
自らが自分を取り巻く社会生活をとおして学ぶものだと思う。
社会生活ーーつまり自分の暮らす地域であったり、
所属する会社であったり、家庭であったりだろう。
しかしこれも時代のせいか、
長引いた不景気による家庭崩壊や、
会社に長く属せない人が増えたりして、
倫理観を学ぶ環境を持たぬまま、
大人になってしまった人が多く存在する、
ということもあるのだろうか。
その残念な有様が
このネット社会で露呈してしまっているのだろう。
『複製・転載』の場合は、著作者の許諾を得る。
『引用』する場合は、著作物の出典を明示する。
勝手に人さまの家のものを借りるのは泥棒であると分かるはずなのに
ネットになるとその倫理観が揺らぐのは、
ほんとうに不思議なことだと思う。
無防備な言葉の飛び交いがちなネット社会はなおさらに
ルールをわきまえた大人の社会であって欲しいと望む。