そんな貴方も助けたい
私に対して、「お義母さまから信用されているっていいことじゃないか」と言う人もいますが、いやー、それいちばん困るんですけど(-。-;
深刻さにおいて、私はまだ低レベルですが、介護の現場に対する世間の理解は、こんなものです。
「やっぱり家族がみるのがいちばんだ」
「わがままを言えるのも信頼関係があるから」
「聞いてあげれば満足するんだから、話を聞いてあげればいいじゃない」
「お金を出せばやってもらえるなんて、楽でいいよね」
「お金で解決するなんて、非情」
などなどなど。
でも、介護も看護も、どちらもまだ十分な制度とは言えません。
例えば今回の参院選挙で当選した、舩後靖彦さんや木村英子さん。
24時間体制の看護を要する人が、「議員」になったとたん、登院するときの看護が打ち切られてしまうなんて、やはりおかしいです。
仕事ができるんだから、看護いらないでしょう、という理屈ですよね。
頭脳明晰で仕事はできる、でも、介助が必要な人だったら、サポートするのが当然です。
動けない人は寝ておけ、と言わんばかりの現制度は、どっち方向を向いて整備されているのでしょうか。
話を元に戻して、我が家の状況ですが、
今の義母に必要なのは、家に来て話し相手になってくれるような人です。
今いる自治体に、「傾聴」のボランティアはいますが、要介護になって、しかも家族が仕事でいないところには来てもらえません。
なぜか。
「傾聴」が家族の代わりに話を聞いてやるサービスなので、家族が家にいることが前提なのです。
でも、近すぎるからうまくいかない介護ってあるんですよ。
他人だから、客観的に接することができる。
家族だったら喧嘩になるところが、むしろ温かく接することができる。
プロの介護者に依頼するのは、そういう意味があるんです。
責任ある仕事で休めない。
学生として学校に通っている。
さまざまな理由で家を空けるわけですが、家族が介護保険のお世話になっているから仕事はやめて家で世話をしろ、というのは、その人らしい生き方を抑えろということです。
仕事をやめたら収入の道が途絶えます。
それが原因で心中した親子もたくさんいます。
社会が見捨てなければ、生きていられた人たちがいたはずなんです。
社会が見捨てなければ、なんらかの形で社会に貢献できた人がいたはずなんです。
物理的経済的貢献ができなくても、人を和ませたり、小さな親切ができたり、そうやってささやかな幸せを自分にも世の中にも分けられる人だったかもしれない。
そういう人を、「生産性」や「合理性」で追い詰めるって、おかしいです。
どんな状態も、自分が来た道かもしれない。
自分が行く道かもしれない。
そうやって慮る社会になってほしいと思っています。
