唐十郎がなくなってもう1ヶ月を過ぎたが、遅まきながら彼への思いを少し書いておきたい。

まず、以前にも書いたことがあったがアングラ演劇草創期の5人衆のうち、唐だけは最後までそのセリフの理解ができなかった。

もちろん言葉の意味が分からないということではなく、舞台の中の流れにおけるそれぞれのセリフの繋がりやストーリーが、という意味である。

黒テントはこの中では一番わかりやすい。

鈴木忠志には練られたセリフの重みを感じる。

太田省吾には、元々セリフが(あまり)ない。

寺山修司も難解だがまだどうにか追いつける。

 

ストーリー性と心の機微をあてに芝居を観に行っている私ではあるが、それでも、毎回とは言わずとも暑い初夏の新宿花園神社にいそいそと出かける気になったのは、やはり彼の舞台に何かを感じたからであり、その何かに出会いたくなるからである。

古いテントと土の上に敷いたゴザ、多少の埃と時々飛んでいる虫、裸電球に似たピンスポ。

狭い舞台空間で放出されるなんだかわからないけどすごいエネルギー。

そこに、戦後の混乱期の日本とそこから続く安保前後の自由な雰囲気とその熱量がうかがい知れるような気がなんだかする。

そしてその熱の量は、それが向いている方向に無限に続くかのように感じる。

寺山が向く方向を暗い地底の闇の底としたら、唐が向く方向は空、いや宇宙と言ったほうがいいかもしれない。

だから誰にも追いつけない。

受けを狙うなどという意識も、あるいはこう描いたら見ている側は感動するだろうなどという意識も、おそらくない。

はっきり言うと、描きたいことを描くのであって見る側のことなど考えてもいない。

そういう劇作家が他にいるだろうか。

 

そこに、計算ではない、人間が行動することの原点のようなものを見る気がするのだ。

人は、自分の原体験が生きる上での物差しになったりする。

私はもちろん戦中も戦前も、大正デモクラシーも明治維新も知らない。

でも安保から高度成長に渡る時代は、そのかけらを肌感覚のどこかに覚えている。

彼の舞台を見ると個人的にもそこに一度戻れるような気がする。

戻ったら、そこからまた明日が、いや、新しい時代すら始まるような気がする。

私が、時に渇望するかのように彼の舞台を見に行きたくなる理由はそこにある。

 

不思議なことに、他の劇団が唐の芝居をやってもその雰囲気はなかなか出て来ない。

同じことはつかこうへいの芝居についても言えて、彼の直接の薫陶を強く受けた者が演出する舞台でないとなかなか、、、である。

唐の劇団は久保井がそのまま踏襲できるか、になる。が、唐がいない中においては、これまで以上に相当の覚悟も求められるように思う。

唐の思いが彼らの舞台で続いていくことを願う。