芝居を見始めてそれなりの年月が経つが、ある時、なんで自分は芝居を見ているのかと自問したことがある。

言い換えると、映画は1800円、テレビはタダ、対して芝居はそれなりの値段がするが自分は芝居の何におカネを投じているのか、という自問である。

ややパブリックになってしまう映画、完全に公であるテレビに比べ、芝居はほぼ閉じた世界。

必ずしも疑問を持っていたわけではなかったのだが、改めて定義したくなった。

当時自分なりに出した一つの答は、その閉じた世界を活用した「勢い」、「つっぱり」そして「一体感」というようなことであり、そこに芝居ならではの醍醐味があると位置付けた。

一方でジャンルに関しては、制限せずにやや幅広に構えるようにしてきた。

制限せずに見る中に、上記の「 」にあるものを感じられれば、と思ってきた。

 

だが、当たり前だが作品によっていろんな出来がある。

私の言う出来とは、主にシナリオのことである。

お金の無駄だったな、と思ったことも少なからずある。

でも、お金以上の価値があったと思ったことも少なくない。

それは結局、人の心の機微の見事な投影、そしてそれが、どうにか生きていこうとしている人を描く場合、ということになろうか。

 

勢い、つっぱり、一体感は、当時、やはりなんとなくつかこうへいを意識していたところがある。

 

松田正隆という劇作家がいる。

勢いやつっぱりはない。

いわば、そこにある日常を描いているだけである。

しかしながら、置かれた場所でどうにか生きて行こうとしている人、あるいは生きようとしてもがいている人の心情が、相手とのやり取りの中で細やかに、そして過不足なく描かれている。

ハッピーエンドでも悲しい結末でもない。

芝居のエンドは「生はまだ続いていく。」それだけである。

そのことも含めて過不足なく、、、

これが極めて大切なポイントである。

 

先週の「月の岬」がまだ2回目の作品だが、その描き方に、終わってからも言葉が出ない。満点というより、満点以上の出来である。

描いた作品の表現は当然ながら演技者が握るが、その言葉の紡ぎ方、間、目の動き、表情なども、作家の意図しているところを十分に表していた。

 

相手にこちらの思いが通じることばかりではない。

むしろその逆のほうが多いのが世の中である。

気遣ったつもりが逆効果になることもある。

それらのやり取りの中から人の心の機微を描く。

そういうものを好むようになってきたのはそこに“なにか確かめたい安心感”のようなものを感じ、それにより一種の安らぎのようなものを感じているのかもしれない。

自分なりの“生きて行くための日常”から見た場合の非日常性とでもいうか。

 

でもそのことだけで言えば、映画やテレビなどにもそういう質感の作品がなくはない。

が、舞台が唯一違うのは、画像のように切り取りができないために舞台上の全員がある方向に向かってそれぞれの役割を果たしている(果たさないといけない)ということであり、見ていてそれら全てを感じることができるという点だ。

それが“一体感”なのであろう。

 

今まで、幅広にと言いつつも脈絡なく見てきた現代劇の芝居が、だんだんそういうタイプの作家の作品に収れんしてきているように思う。

大切にしたい作家がまた一人加わった。