観世清和の隅田川を見た。

 

初めて見た隅田川は大槻文蔵の、だった。

昨年、2回目の大槻の隅田川を見た。

全身全霊で母親の気持ちを表現。こちらとしても感情移入を禁じえなかった。

観世清和が演ると聞いた時、彼の隅田川はどうなのか関心がわいた。

それまで何度か見た観世宗家の能に、私は正直言って“凄み”を感じなかった。

しかしあの隅田川だったらどうだろうか。

 

結果は、さすがそれなりであった。

観世の宗家として、その意念が正面からも背中からも発されていた。積み重ねが見て取れた気がした。

 

繰り返し見たくなる演目がいくつかある。

能の隅田川は私にとって、安宅などと共に紛れもないその一つ。

歌舞伎・文楽の寺子屋、劇団四季がやるオペラ座の怪人などもまさにその一つ。

つかこうへいファミリーがやる熱海殺人事件もそうである。

一方で、この人が演る舞台だから、この劇団だから、あるいはこの人の脚本/演出だから、というのもある。

気に入った人(あるいは劇団)に焦点を当てるわけだからこの場合もおおかたにおいては見る価値のあるものが多く、むしろ普段はいたってそういう選択をしている。

その意味では、「人や劇団」よりも「演目」により焦点を当てて見るものは実は上記した以外にはそう多くない。

しかし数少ないそれらの演目に共通しているものは何かと考えた場合、それは「凄み」であろう。

呻るような筋書きと、それを自分の中に肚落ちしてやる役者の技量が合わさった時、その作品は凄みを発する。

それが、見ていて自分自身にとっての「魂の震え」ともなる。

文化・芸術は最終的にはそこに尽きると言っても過言ではない。

すべてはそういう演目/人との出会いがなせるものである。

でもそう考えると、私の出会いなど、まだ世の中においては取るに足らないほどである。

まだまだいろんな“出会い”があるだろうと思う。

 

 

先日、今年1月にできた新宿の東急歌舞伎町タワーのシアターミラノ座に行った。

あの、昔は池があった猥雑な界隈が全く別のものになっていて思わず目を見張ってしまった。

驚いたのは歩いている人の雰囲気の違いである。歌舞伎町というよりも原宿や渋谷に近い印象だった。

一泊300万円のホテル併設ということもあり、この辺りは昔しか知らない自分からするとガラリと変わるだろう。

 

一方で、別の日にそこから少し歩いた花園神社のテントの芝居を見に行った。

ここは昭和のまんまである。

しかもあの、どこか猥雑で、でもはちきれんばかりのエネルギーのある昭和のまま。

 

そもそも新宿はアンダーグラウンド演劇の聖地だと思っている。

かつていろんなもののルツボだった新宿にあの怒涛の70年代の芸能のエネルギーが集まり、そしてそれがそのまま現代のアンダーグラウンド演劇につながっている。

中世に始まるいわゆる古典芸能においても、そういった一種猥雑なものから昇華していったものではないかという気がする。

時代は変われども、原点はおそらくそこにある。

 

進化する東急歌舞伎町タワー界隈と花園神社界隈とを見ながら、なんだか思わず嬉しくなってしまった。