基本的に1980年代以前のプロレスしか見てなく、それ以降はまるで斜め読みするかのようにしか見ていなかった自分にとって、猪木は一言でいえば馬場の下で悩み、もがき、そしてやがて独り立ちしていく、、、そういうレスラーとして映った。

ただ、力道山に始まり馬場に至る、いわゆる手刀や足蹴りなどを多用する、プロレスとしてはやや番外的なスタイルから、当時ストロングスタイルなどと称した体術を中心とする欧米のレスリングのスタイルでちゃんと活躍した最初のレスラーであったと思う。

若き日のジン・キニスキー、ジョニー・バレンタイン、ファンク兄弟などとの勝負はいまだに鮮明である。特にジョニー・バレンタインとは、“宿敵”として記憶に残る勝負をした。

猪木の「燃える闘魂」は、実はそのころの猪木が一番ふさわしい。

でも猪木はもがいていた。

 

馬場とのタッグが「日本最強タッグ」であったが猪木はあくまで馬場の下であり、バレンタインはキニスキーと来日したらどうしてもキニスキーの下になり、上記の“宿敵”もタッグの下同士の対戦という色彩が強かった。

日本プロレス界を背負っているのはあくまで馬場であり猪木ではなかった。

 

その転機は80年代に立ち上げた自分のプロレス団体やほかの団体との提携等の時期にあったかも知れない。

かつては、高度成長期とともに悪役ガイジン(特にアメリカ人)をやっつけるという“勧善懲悪”型で金曜8時の「ゴールデンタイム」で高視聴率を稼いだこともあったような熱狂的なプロレスブームはすでに去り、団体同士の対決や合従連衡、そして異種格闘技戦に活路を見つけるしかなかったろうと思う。そこに、かつては選手としてもがいていた猪木が今度は「経営」にもがくことにもなった。

その意味では、高度成長期の波をそのまま受け継ぐ形で何とか終盤まで経営できた馬場とはまた別の苦闘があったはずである。

 

亡くなってちょうど一か月がたつが、ヤフーニュースではいまだに猪木に関する記事が毎日のように展開される。

馬場が亡くなったときは今ほどのネット社会ではなかったが仮にそうだったとしてもここまで続いたかどうか。

猪木が独立して以降の、プロレス以外の多方面での活躍によるファン層の増加もその背景であると思う。

特に「元気ですかーっ!」に始まるフレーズは老若男女を問わず有名になり、猪木=元気太郎のような印象になっているように思う。

だが、実はそこに、なんとはなくの“薄いもの”を私はずっと感じてきた。

かつてテレビで見ていたリング上の猪木のもがきとはまったく別物のパフォーマンスのように見えた。

猪木を、肯定しているのか否定しているのかわからないようなパフォーマンスにすら感じた。

 

いつのころからだっただろうか。

 

もともと繊細な(はずの)猪木自身はどう思ってあのパフォーマンスをやっているんだろうかと思いながら見ていたある時、そのパフォーマンスをやっていた彼の目にフッと哀しみを感じたことがあった。

その瞬間、写真でしか知らないはずの入門前の猪木、活字でしか知らない力道山に叱られている猪木、そして自分の目で見た馬場の下でタッグを組んでいた猪木の“もがき”が同時にフラッシュバックした。

 

かつてのブラジルの農場での過酷な少年労働、持て余す体と技量がありながらの二番手、そして政治家との二足のわらじとなった90年代以降のこの国の矮小化、、、

彼はそれらをずっと経てきながら、一見きわめて単純に見えるパフォーマンスだと分かったうえで、あえてあれをやっているのかもしれない、と思うようになった。

 

単なるノリなどではない、猪木のこれまでの来し方と行く末への確固たる信念。

そこにある、馬場とは違う纏い方をした猪木の覚悟。

それが、今はよく見えるような気がする。

 

 

上記したように、プロレスが国民的興行であったのは高度成長期をまたいでの昭和の中盤から後半の時代である。

力道山、馬場は言うに及ばず、昭和から平成を駆け抜けた猪木も、まぎれもない昭和のレスラーである。

また昭和の匂いが一つなくなった。

が、猪木が蒔いた種は、平成の時代に格闘技界の広がりという蕾をもたらし、いくつも花を咲かせた。

それはある意味、猪木にしかできないことだった。

 

今ごろは馬場と、そんな話をしながら、笑って酒でも飲んでいるんじゃないだろうか。