昨年、海老蔵の助六を見た。
さっそうと登場した時に、やはりこの男にはこの男ならではの華があるなと思った。
が、その後のやり取りは、“ふざけ”がちょっと悪ガキに見えてしまう甘い部分もあった。
 
先週、仁左衛門の助六を見た。
仁左衛門だったらどうちがうか、特に海老蔵が悪ガキのようにふるまった部分はどう違うか、見てみたかった。
当代、助六を演じてきた役者、演じられる役者は市川宗家以外、仁左衛門くらいしかいない。
 
果たして、さっそうと登場した仁左衛門助六は、大人の風体を見せながら、相手(意休)を操る(からかう?)時もきりりとした顔を見せ、海老蔵が甘くなったところにおいても決して隙を作らない演技を見せた。
そうか、この、眉や目をころころ動かさない、面の相を変えない助六に仁左衛門は江戸の粋を見出そうとしたか。
それも確かに解釈。
 
一方で海老蔵の、大型で粗削りだがまだ若さがそこかしこに残る助六。
江戸の助六とは案外そういうものだったのかもしれない、と思わせるようなこの助六はある意味本家本元の解釈。
 
ストーリーの中身から想定される年齢は行ってもおそらく30歳前後。70を超えた仁左衛門においてはやや声のハリが足らない感じがしなくもない。
こと助六においては、若く、まだ脇も少々甘い者のほうが似合っているのかもしれない。
しかし、そんなことは百も承知の仁左衛門が今回わざわざ演じたのは、おそらく、彼にしかできない助六の粋の部分を見せておきたかったからなのかもしれない、と思う。
 
 
今歌舞伎界で残っている重鎮はやはりというか、それぞれにいい。菊五郎、白鴎、吉右衛門、そして玉三郎、、、
忠臣蔵ひとつとっても、菊五郎の早野、白鴎、吉右衛門の大石はそれぞれに魅せるものがあった。しかし仁左衛門の大石、あれはまた別格だった。
この人たちが、次代を担うことになるであろう30歳~40歳台のそれぞれのセガレたちの世代にバトンタッチしていくことが今の、いや今後数十年の歌舞伎界の一番重要な“行事”であろうと思う。例えばここに名前を出した彼らは各々、やはり「何者かである」ように感じる。が、その子世代の演技はまだ全くと言っていいほど別物に見える。
同じことは、狂言における野村萬と万作それぞれの親子、東次郎親子にも言える。2020東京オリンピックの開閉会式総合演出を指揮することになり、今やいろんなところで顔を出している萬斎など、父親の万作にはまるで及ばない。その観点で見た萬斎の狂言は、申し訳ないが見ていて心が動かない。本職の狂言でそうであるとすれば、ほかの何役をやっても、私にとってはおなじである。
 
彼ら親世代のやるべきこと、いまだ大である。
 
 
助六に戻る。
解釈の考えはいろいろとあろうと思う。が、個人的に、助六の最大の見せ場は登場のシーンであると思う。
花道で姿を見せ、シナを作り、傾城たちに目をやり、さっそうと見得を切らずに見得を切り、「助六ここにあり!」の心意気を、一言も発せずその顔と姿のみで表現する、あのシーンこそが、そこに思い切り投げ銭してもよいとさえ思うあのシーンこそが、助六のすべてである。
あそこに江戸のみならず、歌舞伎の粋という粋が凝縮されているように思う。
 
仁左衛門が示したかったのは、出た瞬間にインパクトを感じる海老蔵に対し、見ていてそこはかとなく、静かだがジーンと匂ってくるかのような、そして知らぬ間にそれが会場全体を包むかのような、そんな色香だったように思う。
海老蔵の助六が「今」なら、仁左衛門のそれは、これまで常に試行錯誤し、悩み抜き、その末に仁左衛門が到達したもの。
近視眼的な視線でなく、遠くを見るようで劇場全体を視野に入れるような目線。そして、視線ごとの絶妙な間。
まさに助六という人物を借りた歌舞伎の粋の集大成と永遠性を感じさせる、そういう芝居だったように思う。
 
今回の仁左衛門は、それを観客のみならず、次世代を担う歌舞伎俳優たちにこそ示したかったのではなかろうか。