違和感がある。
アジア大会バスケ代表4選手の、「試合終了後の深夜、日本代表選手団ウェアを着用したまま現地歓楽街で遊行した」ことを理由とした日本代表選手資格はく奪後の“謝罪”記者会見である。
謝罪というからには「誰に」という事が明確でないといけないのだが、どうやらそれは「国費」を使っての参加だったため、“国民に”という事のようであるが、では彼らは国費を棄損したのかといえば、そういう事ではない。ちなみに、国費を棄損しても謝らない御仁はたくさんいらっしゃる。
ならば何に対する謝罪なのかというと、それはすなわち“モラル”を犯したことに対して、というほかはあるまい(買春のお相手はビジネスとして受けているとしたら、いわゆる“犯罪”の形になっているわけでもない)。
さて、モラルを犯したとして、それはいったい国民に対して謝罪することなのだろうか。
一般に、モラルを犯した場合、それによって心的(あるいは物的)被害をこうむった人に対して謝罪するのがふつうの筋道である。
今回、それは誰なのか。
一部の国民の方にはそれを感じる方もおられるかもしれないが、多くの方は必ずしもそうではないのではなかろうか。
被害を受けたお相手に対して謝罪するのならまだしも、不特定多数に対してモラルの件で謝罪するのは、ピンとこない。
そう思ってネットの記事を見ていたら、会見を開いたのは日本バスケットボール協会であり、弁護士3名で構成される裁定委員会で選手への事情聴取を改めて行い、委員会からの答申を理事会にはかり、正式に処分が決定するらしいこと、そして三屋会長が「自分の力で立ち直るきっかけを作らせたくて、この記者会見に登壇させた。しかし、彼らのバスケ人生をつぶすわけにはいかない。再生プランも考えていなければいけないと思っている」と今後の対応に関しても言及したこと、とあった。
そういうことか。
組織防衛、である。
コンプライアンスの発揮、である。
そして会見の最後には“国民へのお願い”、である。
火事の火を消すのとは意味が違う。
事は起き、資格はく奪の処分がいったんは下っているのである。
あわてて組織が公に向けて何かを発露する理由がいかほどあろうか。
また、“彼らのバスケ人生をつぶすわけにはいかない”が、だからと言って謝罪会見の中で急いでそういう“再生プランのお願い”までしてしまうモラル感はどうなのか。
今回の事の性質を考えた場合、それを誰に謝っているのかよくわからない「組織による緊急会見」で取り急ぎ謝罪させることで矛を収めようとする行為は滑稽ですらある。元々報道陣の“問い合わせ”により“発覚”したことであるが、その報道陣の中には会見で買春の値段まで聞く者もいた。4人に反論の余地がある会見ではない。繰り返しになるが処分はいったんおりている。買春の事をとかく聞かれても彼らはただ謝るしかない。いわば池に落ちた犬状態である。そういう報道陣のモラル感はドーナノカという事を含め、見ているほうもあまりいいものではないのではないか、、、
この会見に含まれる、主催側と集まった側双方それぞれの幼稚性に愕然とする。
ビジネスの社会で昨今見られる異常なまでのと言いたくなるくらいの「コンプライアンス規範」。
時とともに、本質からだんだん離れて行っている感(=責任の所在の不明確化)が増す。
そもそもモラルとは個人の意識の中の問題である。人が違えばその意識も微妙に違う。まして国が違えば社会通俗はだいぶ違ったりする。
そこに外部の関係者が型をはめようとする。
もっと人の社会は単純明快でいい。
本人たちが悪いことをしたと思うならば、それを償う何かをするべき。周りはそれをじっと見てればいい。
モラルを犯したとしたら、それが許されるかどうかは、本人が決めることではないし、お願いすることでもない。
いつの日か、世の人が納得すれば、再起の道はその時に用意される。
そういう、“当たり前の事”を当たり前に行い、見守る、、、、、それ以上でも以下でもない。
それが厳しさであり、優しさであろうと思う。
最後に、当然そうしたであろうとは思うが、「仲間」であるこれまで切磋琢磨してきたほかの選手たち、関係者の人たち、応援してくれた人たちに、この4人が心より謝罪したことを、ただただ願う。