「光る君へ」で道長から送られた和歌に、

まひろが漢詩で答えるというやりとりが描かれていました。

漢詩は男子のものという

当時の常識をひっくり返すストーリーでした。

文学ジャンルを越境することで

ジェンダーを越境してみせたわけですね。

 

さてその常識はいかほどのものだったのでしょうか。

岩波文庫に小島憲之選「王朝漢詩選」(1987年)

というアンソロジーがあります。

7~⒓世紀に創られた3000首以上の漢詩から

170首を選んだものですが、

巻末の作者小伝で数えると75名のうち3名が女性でした。

姫大伴氏(ひめおおともうじ)

大伴一族の娘であろうが未詳。

嵯峨天皇に仕えた女官か。

 

惟長(これながのうじ)

「嵯峨天皇の女官、惟良理道の族類」かもしれない、

という記録があるらしいが未詳。
 

となっていて、

どちらも今ひとつはっきりした記録がないようです。
 

嵯峨天皇(786~842)は「王朝漢詩選」に⒓首採られていて、

菅原道真25首、

島田忠臣(しまだのただおみ)13首に次いで第3位。

100首以上の詩が残っているそうです。

さて詩人嵯峨天皇の第三皇女が

公主(内親王)有智子(うちし、またはウチコ)(807~847)です。

作者小伝には
「若くして賀茂の斎院となり、

晩年を嵯峨の山荘に送る.

漢籍に通じ,10首ほどの詩を残す.」
 

2首収録されているうち、

「春日の山荘、探りて「塘、光、行、蒼」を得たり」

をご紹介します。(248~251頁参照)

寂寂たる幽荘 水樹の裏
仙輿一たび降る 一池塘
林に栖まふ孤鳥 春沢を識り
澗*に隠るる寒花 日光を見る
泉声近く報ぐ 初雷の響、
山色高く晴る 暮雨の行。
此より更に知る 恩顧の渥きことを
生涯何を以てか穹蒼に答へん
 
せきせきたるゆうそう すいじゅのうち、
せんよひとたびくだる いちちとう。
はやしにすまうこちょう しゅんたくをしり
たににかくるるかんか にっこうをみる。
せんせいちかくくつぐ しょらいのひびき、
さんしょくたかくはる ぼうのつら。
これよりさらにしる おんこのあつきことを
しょうがいなにをもちてかきゅうそうにこたえん。**

ものさびしい静かな山荘は水辺をとりかこんで立つ樹木の中にある。
天子の御輿はこのたび池の堤のほとりのこの山荘に行幸したもう。
林に棲みつく一羽のはぐれ鳥は春のごとき恩沢(みめぐみ)を身に覚え、
谷間にひそんで咲く寒さの中の花も陽の光を仰ぐ。
庭に落ちる滝の水は春一番の雷鳴のような響きをたてながら身近に聞こえてくる、
山のあざやかな色は夕方の雨あしが行列をなすかのように降る中に空高くあがっている。
この行幸よりご恩の厚いことをなおさらに深くさとった次第である、
この世にいる間なにをもってしてご叡慮にお答えすることができようか。

題の意味は
823年2月、嵯峨天皇斎院の行幸に際して、

「花の宴」をひらき、

供奉の文人たちに「春日の山荘」という題の詩を作らしめたもうとき、

「塘、光、行、蒼」の韻字があたって。

この詩に感嘆した天皇は

公主に直ちに三品(さんぽん)を授けられた。

公主はこのとき17歳。
品(ほん)は「日本で、親王、内親王に与えられた位階。

一品から四品まであり、無位の者は無品(むほん)とよばれた。」(「デジタル大辞泉」)
 

詩人天皇は、

まだ若い娘がみごとな詩を詠んだので

とてもうれしかったのですね。

ドラマ出演者では
「王朝漢詩選」に

藤原道長の詩が2首、

藤原公任の詩が1首掲載されています。
作者小伝によると、

道長は

「自邸・別荘でしばし詩文の会を催し、時の詩壇の中心人物であった」。
公任は

「大納言に進み、和漢にわたる才を世に称せられた.

『拾遺集』『和漢朗詠集』の編者.」。
ドラマはドラマとして、

道長や公任がどんな詩を詠んでいるのか気になったら、

393頁から398頁を開いて下さい。

私はまだ300頁までしか読んでませんが。
 
 *「澗」は門構えの中が日ではなく月ですが、

 

 

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 **岩波文庫版では読みがなは旧かなです。