PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より -2ページ目

PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術、最近は哲学についてのエッセイも。
たまにタイル絵付けの様子についても記していきます。

我が工房のグループ展が終了し

一息つく間もなく気付けば

あれよあれよといつのまにか

図らずも葛藤の渦中に立たされ

何かと心がざわついていた日々。

いったい何が起こったんだ?

それでも時は我関せずとばかりに

私の脇をしらっと通り抜けていく。

 

 

あはは、人生ってそんなもんだよな。

もう、笑うしかないじゃないか。

 

 

そんな私にできる唯一のことは

この続きを読むことしかなかった。

 


ー語り得ぬものについては、沈黙せねばならないー(ヴィトゲンシュタイン)

その言葉の本当に意味するものとは何か?!私は沈黙の代わりにあえて語ることを選ぶ。

右差し「プルースト三昧とは言えぬ流れのなかで」

そういえば前回のこの記事から約2ヵ月余り経つ。

あの時は12冊目に入ったばかりで、正直いつ読み終えるか全く先が読めなかった。

なかなかページが先へ進まないのは内容的に決して難しいとか退屈なわけではなく、むしろ以前にも書いた通り冒頭からとにかく引き込まれる仕掛けになっているせいだ。

 

「アルベルチーヌさまはお発ちになりました!」心理の探求において、苦痛はなんと心理学をもはるかに凌駕することだろう!つい一瞬前、わが心を分析した私は、このように顔も見ないで別れることがまさしく私の望んでいることだと想いこんでいた……

このような会話体から始まる書き出しにすでに物語全体の内容が暗示させられる。

本の帯に「消え去ったアルベルチーヌ」とあるように、この巻のおもしろさは、主人公の〈わたし〉と恋人のアルベルチーヌの恋愛模様に関しての謎解きにあるといえるのかもしれない。

アルベルチーヌはなぜ自分の前から立ち去ったのか?

アルベルチーヌはなぜ嘘をつかなければならなかったのか?

アルベルチーヌは本当に自分を愛していたのか?,  etc.

それらを巡って記憶の糸を執拗に手繰り寄せつつも、はっきり言えば「あーだこーだ」と煩悶する〈わたし〉の姿をいやというほど読者は目の前に突き付けられるのだ。

読者とは他ならぬこの自分である。しかしすでに冒頭からその世界に引き込まれ囚われの身となった者としては、1行1行じっくりと噛みしめる中にもし自分だったら……などと問いかけずにはいられなくなる。

そんな具合に一歩進んでは物思いに耽り立ち止まったりを繰り返すせいでどうしたってスローペースになるのもやむを得ないのかもしれない。

いや、そんな言い訳を自分はしたいわけではない。

さてこの場合、自分が問いかけている相手とは果たして誰なのか?ということについて提示しようとしている。それは主人公である〈わたし〉だろうか?確かに〈わたし〉の言動に対し読者の自分が反応しているのであればそういうことになるわけだが。それはおそらく表面的には間違いとは言い切れないだろう、などと奥歯に物が挟まったような物言いをするけれども、本当はこういうことではないかと考えている。

問いかけの相手は紛れもなくこの読者である自分自身であると

その一文や文章を読みながら共感を覚えたり疑問などを感じた時点で、それは主人公の〈わたし〉の言葉を通り越して自分自身への呼びかけとなっている。つまり〈わたし〉はきっかけに過ぎないということだ。伝わるだろうか。わかりやすくいえば鏡を覗き込んだ瞬間に向こう側に映っているのは自分自身に他ならないということなのだ。

この自分自身とは何なのか?

それは〈魂〉と言い換えてもよいだろう。

 

 

そんなことを考えながら、やっとこの12巻全600頁余りを読み終えた。

(残すは後2巻のみ。だがいったいいつになるか?)

 

 

 

 

ところでその魂だが、どこにあるのだろう?

今回のテーマであるそれについて、一つだけ確実と言えるものを私は見つけた。

〈目に見えない世界〉といえば普通スピリチュアルな世界の領分であるし、それについてはどちらかというと最近の私は肯定派である。

ただ今回私が挙げるのはそれらとは少し違ったものだ。

 

 

上の写真のページに☆☆☆を付けた文章をまずは読んでいただきたい。

 

人は死んでも、その人が芸術家で自己の一部を作品のなかにとりこんだ場合、その

 

人のなにがしかは死後にも残存するといわれることがある。もしかするとそれと同

 

じように、ある人から切り取られてべつの人の心に移植された一種の挿し穂は、そ

 

れが切り取られた元の人の命が尽きたときでも、べつの人の心のなかでその生を存

 

続してゆくのかもしれない。

 

どうだろう。この文章の中に〈魂〉といわれるものの存在を感じないだろうか。

 

もちろん内容的には、これは魂というものの在りかについて語っている。しかし私が言おうとしているのはもう少し具体的なものを指している。

単語や文節を重ね合わせてできる一文、それらをさらに繋ぎ合わせていき文章が出来上がり、その中に魂が存在すると知らしめるもの。

 

それは「行間というものの中に存在する」と私は思っている。

 

行間と行間の波間を漂う言葉たちが背負ったあらゆる感情や思考を、決して見失なうことなく目的地まで導き送り届けること、それらの中に魂は生きている。私たちが感動を覚えたりするのは間違いなくこの魂のおかげであるのだ。

 

 

クローバー

 

 

実は魂の在りかについてもう一つ確実なものを最近見つけた。

このところ昔に自分が書いた記事を読み返す度に、本当にこれが自分が書いたものなのかと驚かされることも多い。が、もっと信じられないのはその際に見返すコメント欄である。

コメント欄は昔から大事な対話の場であると考えてきた自分にとって、表の記事とはまったく異なるテンションで馴染みのフォロワー(読者)さんたちとやり取りしてきたと思っている。

今読み返しても実にイキイキとした自らの様子を現在の客観的な目で眺めては、気恥ずかしさもありながらも懐かしさのほうが勝り、確かにここに自分の魂は在ったという思いを一人噛みしめているところである。

「今だって決して無くしたわけではないけれど」と最後に付け加えておく。

 

 

 

 

キラキラキラキラもっと日常に文学と愛飛び出すハートキラキラキラキラ

by MAGUDARA

 

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