気ままな読書日記/抽選でget!!その他読んだ本たち(11/19) | PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術、最近は哲学についてのエッセイも。
たまにタイル絵付けの様子についても記していきます。

こんにちは~。

真のPARIS好きと自称するvingt-sannですが

読書はそんな自分にとっての

人生で″かけがえのない友″

基本的には備忘録ですが

よければ一緒に語り合いましょう。

 

 

何かに応募しても(まあ、滅多にしないのだが)

宝くじはおろか、当たった試しがない。

だから抽選に当選したのを知り

「当っちゃった!!」と小躍りした。

もちろん心の中でだけども。

 

今年9/5に紀伊国屋書店から刊行

 

 

この本は私が最近よく視聴しているYouTubeの番組で

下差し

山本貴光(文筆家、ゲーム作家)と吉川浩満(文筆家、編集者)による

人文系情報チャンネル。 新刊や推薦図書の紹介、その他……

 

番外篇 当選者発表☆チャンネル登録者数5000人突破記念プレゼント企画

 

二ケ月ほど前のこちらの企画に応募し、当選確率10%ぐらいだったかと。

 

 

見開きには著者のサインもキラキラ

 

 

数日かかって昨日、読了。

哲学入門ではなく哲学の門前、この「門前」に深い意味がある。

扉を捲ると次にはカフカのこういう言葉が記されていた。

 

ほかの誰ひとり、ここには入れない。

この門は、おまえひとりのためのものだった。

さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ。

―フランツ・カフカ「掟の門」

 

もうここを読んだだけで期待値が上昇アップ

詳しい本の感想はまた後日に改めて。

 

 

本未読の方はコチラから

以前の読書日記で取り上げた本のその後について

 

   

 

先の『哲学の門前』と哲学がらみということでコチラから

下差し

『日本語からの哲学』なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか? 

平尾昌宏/晶文社刊 税込1,980円

 

こちらもやっと読了。

″やっと”が付くのは事情があり併読していた本が他にも数冊。

興味深いテーマなのになかなかページが進まない。

併読しているせいもあるが長編小説のように斜め読みができない。

こういう本はじっくり噛んで味わないと先に進んでも意味がない。

だが、全頁の折り返し地点に掛かる第三部の

具体的な哲学的考察に入ったあたりから

俄然おもしろくなってきて、付箋や線引きが増えていく。

文学ではないこういう本の感想を書くのはむずかしい。

もっと自分の中で整理してからでないと。

しかし、<です・ます体>と<である体>

誰もがおそらくは普段は無意識に使っている文体だが

読む前と読んだ後では意識の変化が起こるのは間違いない。

文章を書く人には一読の価値があるとても刺激的な本だと思う。

 

 

ところで、驚いたというよりなるほどと納得したことがあった。

この本の著者である平尾昌宏氏と吉川浩満氏のお2人が

なんと週刊読書人誌上で対談をしたのだ。

 

 

私が企画したのではもちろんない(笑)

でもたまたま平尾氏の本のタイトルに引かれ久々に購入した新刊と

吉川氏の<門前>の扉を叩いてみようと応募し当選した本が

こうして仲良く話題として取り上げられるなんて

私の目の付け所もなかなかだと自賛したくもなるというもの。

 

 

ところで今回のメイン

 

「はい。忘れていませんとも」

 

一粒の麦もし死なずば』

 アンドレ・ジッド 堀口大學訳/新潮文庫 

 

 

前回の読書日記の時点ではまだ100頁程度で約四分の一読んだだけ。

回想録のため時系列が前後しある程度集中力が必要とは書いたけど

いやぁ、その後想像以上に手こずり

もう途中でギブアップとなりそうだったことを告白する。

実は平尾氏の日本語からの哲学と併読して

両者ともにいい勝負で遅読を競い合っていたのである。

だが絶版のため借りた図書館の延長期限も残りわずかとなり、

もう無理かと半ば諦めかけているうちに

第二部の残り100頁でグイグイと引き込まれ何とか読了。

 

結局、自分が途中下車せずに済んだこの本の魅力とはなんだったのか。

 

もし作家にならなければ己を破滅へ招いたに違いないもの。

自己の中でプラスとマイナスの両極が反発し合う苦悩。

自分が芸術作品を作らずにはいられないわけは、芸術作品によってだけ、自分の僕の内部のあまりにもかけ離れた二つの素質を調和させるからだと、もし芸術作品を作らなかったとしたら、二つの素質は僕の内部にあって争闘をつづけたはずだ。」

 

ジッドが赤裸々に語らずにはいられなかった自らのセクシュアリティー。

そんなものは二つの戦いの間ではごく表面的なものに過ぎないのだろう。

 

 

<持って生まれた一種の偏屈>と自らを形容する彼は

一冊書き上げれば、次はいきなり極端なものへと走らずにはいられない。

それが平衡を保つために必要なのだと知っている。

ある一つの型にはまるぐらいなら、成功しないほうがましだとも言う。

そんな彼の行動や言葉からほとばしり出るのはエネルギーそのものだ。

自分はたぶんそれに魅かれるのかもしれない気がした。

 

 

ジッドにとって、自分の全てと言ってもよい

処女作『アンドレ・ワルテルの手記』は不評であったが彼はめげない。

僕は正しく愛されるのが好きだ、誤解によって自分に与えられたという気のする讃辞は、むしろ苦痛だ。(省略)いちばん大切なのは自分の作品の真の価値だ。すぐに凋れてしまうかもしれない月桂樹なんか、僕には用がない。

 

何という潔さ、正直さ。また自信だろう。

 

それはあとがきでも触れられている友人への手紙でも読み取れる。

 

それは自分の義務であり

また卑怯でないことの証であり

秘密を言わずに心の中にかくしておくのでは

満足な死を迎えられないと。

 

それは作家の<業>というものなのか。

 

若き日に読んだ『狭き門』についてもそれとなく触れられている。

あれは、決してただのロマンティックな

三角関係の恋愛劇ではなかったのだ。

 

 

自分は基本的に読み始めたらなるべく最後まで読む性質である。

(間があいても決してその作品を見捨てない)

著者の意図がその一冊に込められているはずだから。

マラソンと同じで最後のゴールに着地しなければ意味がない。

最後の景色がどんなものか見てみたいのだ。

 

 

ところで今回のジッドの本の最後のページを開いた時、

そこにはたった一行

訳者の堀口大學によるこんな言葉が記されていた。

 

 

”本訳は全集版のテクストに拠り、完全を期した”と、あとがきにある。

 

″加朱訂正完膚ないほどの改訳”

の文字に深く心を打たれた。

 

どうかこのような本こそぜひとも復刊してほしい。

(仮にもジッドはノーベル文学賞受賞作家であるわけだから)

 

 

ひとまず最後まで読了できてホッとした。

明日は返却をしに行かなければ。

いや明日こそと言うべきだ。

(実は返却日を数日過ぎてしまったので)お願い

 

 

 

本最後にもう一冊だけ併読中だった本を挙げておく

 

   

『テヘランでロリータを読む』

アザール・ナフィシー 市川恵里訳/白水社(2006.9/20)

(※この本は河出書房新社より2021/11/5に文庫化された)

 

 

こちらも読了済み。感想などはまた後ほどの機会に……

 

 

 

赤薔薇

 

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by vingt-sann

 

 

 

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