<対話>とはどういうものを言うのだろう。
<会話>との違いはなんだろうか。
言葉そのものの正式な定義付けは別にして
あくまでもイメージで捉えてみよう。
<会話>はいつでも自由気儘で気楽な感じだけど
<対話>となるともっとハードルが上がる感じ。
最初から何か共通のテーマが用意されていて
それについて真剣に語り合うなどの
少し身構えたイメージを持つ人も多いのではないか。
古代ギリシャのソクラテスの哲学は
対話(問答法)という形式から始まったことでよく知られている。
ソクラテス
まずは私たちの日常に於ける<対話>についての意義からー。
本来なら対面で互いの様子を間近で観察しながら行うのが<対話>。
だが現在はそれもままならぬ時代。
ZOOMの画面を通しある程度それを代用可能な便利な時代になったとはいえ、
もちろん完全ではなく、ある意味で別物。
これは決して代用品のほうをあげつらうことが目的ではなく
対面とそうでないものとのはっきりした違いを
明らかにしておきたいからである。
わかりやすく言うともし対面ならば
相手の言葉に腹が立って我慢できないとなれば
いきなり相手に殴りかかることも可能だという意味を含んでいる。
(画面越しでは相手に直接触れることは当然不可能だからだ)
これは実話だが昔その場面を私はテレビで見た覚えがある。
何かの映画の表彰式だったと思うが舞台上の出来事だった。
歩く大島渚監督の後頭部にいきなり作家の野坂昭如が殴りかかった。
不意を突かれてよろけた大島監督を脇にいた妻で女優の小山明子が支えた。
舞台は一瞬ざわついたが、その後は何もなかったように2人は舞台に並んだ。
おそらく2人にしかわからない確執があり
野坂はそれを表彰式という晴れがましい舞台で
ここぞとばかりに憂さを晴らそうと企んだに違いない。
いわゆる確信犯というやつだ。
例として挙げたのが物騒な話で恐縮だが
対面とそうでない場合の決定的な違いがお分かり頂けたのではないか。
いずれも予め話のテーマについては知らされているので
ある程度の準備が出来るのが<対話>の長所と言えるかもしれない。
さてここからは私が思う<もう一つの対話>についてである。
現在の対面がままならぬ状況におかれようとそうでなかろうと
全く周りの環境に左右されない対話というものが存在する。
それは『本を読む』ことだ。
時代や国境を越え、昔の時代に生きた
先人の叡智なるものに触れその世界に思いを馳せる。
もちろんそのような対象となる本の種類は限られるだろう。
但し<対話>である以上はただ漠然と読めばいいというものでなく
こちら側にちょっとした心掛けが必要だ。
なにしろ対話相手は粒ぞろいの賢者たちばかり。
最初から未熟者のこちらを
まともな対話相手とみなしてくれるかどうかは怪しい。
いやそう言うこちらのほうこそおこがましいと言うべきだ。
それを充分に自覚しつつ最初は<聞き役>に徹するのが正しい。
まずは相手の言わんとすることを出来るだけ理解することに努めよう。
そのうちに少しずつ自身の成熟が感じられるようになり
賢者に問いかけたいものが
自然と湧きあがるようになればしめたもの。
その時からやっと一人前の対話者としての第一歩が始まる。
あくまでもこちらの心掛けと努力次第なのである。
【追補箇所はコチラ】
※記事をアップした後にYouTubeで
たまたま小林秀雄の昔の講演を拝聴してびっくり
「自問自答」
自分が言いたかったことはコレだと思ったので
ここに貼り付けておくことにした。
13分34秒~20分50秒の部分を聴いてみてほしい。
興味ある方はもちろん全部どうぞ(約25分)
次に<会話>について考えてみよう。
自由気儘で<対話>よりも軽いイメージで
それに種類が多いというのが特徴かもしれない。
対話との大きな違いはどうだろうか。
話のテーマは具体的に相手側に知らされていないことが多い。
相手の出方に応じた受け答えをするというのが会話の基本ルール。
結局大きな違いは必ずしも対面というものに拘らなくてもよいところだろうか。
その代表格は『電話』である。
電話こそまさに即興演奏、ジャズの世界だ。
声のトーン、息遣い、間などを手掛かりに
相手の心の動きや様子といったものを観察しながら
こちらの反応や態度も変化させざるを得ない。
想像力というものがこれほど必要とされる場もないのではないか。
そうやって見えない相手側の意図を何とか知ろうと試みる。
双方のセッションがうまくいけば
一人では到底思いつかず成し得なかったと想像される
新しい世界を発見できるかもしれない。
とは言え相手の表情や身振りなどの情報が不足する分
対面での会話よりずっとハードルが高くなることは事実である。
一見、自由気儘に見えながらも一筋縄ではいかないのが
電話というものの正体なのかもしれない。
しかし”顔が見えない”ということは
いきなり会話相手に殴りかかられる心配はないが
実はそれ以上に恐ろしいことである。
それの最たるものがネットの世界だろう。
連日のようにTwitterで誹謗・中傷というものが問題になっている。
ここでは敢えて取り上げないが
『文章』で相手に気持ちを伝えるということも<会話>であれば
手紙やメールと同様にこちらもその仲間に入れるべきだろうか?
<会話>といっても誹謗・中傷する側は匿名で見ず知らずの相手。
それが一方的に一人を目がけてどっと押し寄せる。
これこそいきなり対面で有無を言わせず
多くの相手から同時に殴りかかられる状態だ。
対処の仕様がないからフェアではない。
そもそもそういう人々が最初から
まともな<会話>をするつもりがあるかも疑問である。
私は対話も会話もそこから生み出されるものは
生産的なものであるべきと思っているので
そう考えると先のTwitterなる形式における誹謗・中傷というものは
やはり<会話>とは見なさないことにする。
ところでこの『ブログ』というものはどうだろうか。
人それぞれ利用の目的は違うだろうが
私自身にとっては<対話>の場でありたいと望んでいる。
コメント欄は記事と同様に大事な存在であることは言うまでもない。
頂いたコメントへの返信は
記事への扱いと同様に力を注いでいる(つもり)。
自分がコメントする側に立つ時は
相手先とのセッションが上手くいくように祈る思いで書いている。
それでも時には相手にその思いが届かず
そればかりか全く想定外の反応で
“セッションが頓挫してしまう場合もある。
でもこれだけは言っておこう。
“顔が見えた”としても私はいきなり殴りかかったりはしないし
<対話>をただ楽しみたいだけなのだ。
意見や考え方は違ってもそれも個性。
多少の火花を散らしてもそこからきっと生み出されるはずの
互いにとっての生産的な未来というものを信じたいのだー。
ど~かいつでも気楽にvingt-sannとのセッションを
よろしくお願いします